死のうかな……2017/08/24

 こんなこともあった。
 鹿児島新報加世田支局が、私の記事をそっくり丸写しにして平然と紙面に掲載するのだ。
 あ然としてこんなことはすぐにやめるだろうと静観していた。なにしろ丸写しだ。

仰天したが、抗議はしなかった。どうせ問題になる。
官公庁や警察署は南も新報も取っている。
地元の記事が載れば切り抜いて回覧までする。
一目瞭然なのだ。
早晩この記者は恥をかくだろうと思い、ほったらかして抗議もしなかった。

丸写しはずいぶん長く続いた。
ところが、どこからも声が上がらなかった。
新報は所詮それだけの新聞と思われていたのか。
紙面のクオリティーも紙質や印刷も含めて低く、記者の労働環境も、人不足による酷使、給料の遅配まであるらしい。

南日本の中途採用を受けて、新報から移ってきた記者が3人いたが、確かにはっきり記者としてのレベルは南日本より低かった。

私も抗議のきっかけを失い、あとはいつ終わるのか黙って見守るしかなくなった。初めの一、二本目できちんと抗議すべきだったのだ。
自分で新報の加世田支局に電話して嫌な思いをする必要もない、社から社へ正式に抗議してもらえばよかったのだ。

人間不信に陥っていたのだろう。

このころ、私は小説を書き始めていた。
1995年にはオール読物推理小説新人賞の一次予選にとおり、同誌に名前が掲載された。

また、文芸担当時代に可愛がってもらった相星雅子さんに誘われて、『小説春秋』の同人となり、九六年(平成八年)六月に初の作品を発表した。

冒頭、主人公は姉の首吊り自殺を想像するという死の予感に満ちた作品だ。

読売新聞の文化部記者から、西部版、文化面の文芸時評で取り上げるので、顔写真を送ってほしいと電話があった。
私はペンネームで発表しているので断った。

文芸時評は文化面の3分の1ほどを占める大きなもので、しかもほぼ私の作品だけに言及していた。
福岡の大学の先生(今となっては氏名も分からず)だったと思う。

ぼろくそにけなしてあった。
第一に、主人公の言動に共感が持てないと。
「こいつは馬鹿か」と思った。文学の教師でありながら、悪漢小説(ピカレスク・ロマン)という一大ジャンルを知らんのか。

第二に村上春樹の模倣であるという。私は村上の初期作品に衝撃を受けたのは確かだが、この頃はむしろ嫌いになっていた。
どこが模倣なのか(例えば文体とか)は具体的な指摘はない。タイトルをピンク・フロイドの曲名から取ったと注意書きしていたので、おそらく『ノルウェイの森』(一九八七年)がビートルズ由来だったことの連想程度であろう。

こんな内容であの文化部記者もよく平気で「顔写真を送れ」などと――。同業者の底意地の悪さを見る思いだった。
「悪評もまた評なり」と泰然と受け止めることは出来なかった。
気の小さい私はそれから十年、全く小説が書けなくなった。

 もろもろ、こういう嫌なことが続いた。
 スクープをいくら書いても皮肉か嫌味を言われる。
 管内の祭りを勝手に一面カラーにされた「ほぜどん」事件。
 そして市長が新聞社人事に口を出す。
 一時的にかっと燃えた反発心もやがて収まり、ただ抜け殻のようになって、死のうかな……という臨界点まで塞ぎ込んでいだ。

「死のうかな……」
 支局の窓から港を眺めながらそう呟く日々だった。

 支局は少し高台にあって、南側に開けた海が見える。
 沖には、とんでもない巨人がヒッチハイクをしようとして立てた親指のように、大きな岩が海から突き出て聳えている。
 自分はこの〝立神〟と呼ばれる巨岩をこの世の、この町の名残として胸に刻もう。
「立神……。Standing Godか……」
 自分の中の生きようというエネルギーが急速に失われ、すっかり枯渇してしまっていることをはっきり意識した。
人は生きたい気持ちがなくなったときに死ぬのだろう。もう、どうでもいい、という気持ちだった。
すっかり滅入ってしまった。この気持ちは妻にも誰にも話せるものではなかった。ただ抜け殻のようになってしまった自分を意識するばかりだった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://restart.asablo.jp/blog/2017/08/24/8654854/tb