またまた見学OKの装飾古墳へ2024/02/03

自由に見られる装飾古墳、ということで久留米市草野町の前畑古墳に行ってきた。

草野歴史資料館に車を停めて道を尋ねると、職員の男性が親切にも古墳近くまで案内してくれた

のだが…またポカをやってしまった。
どうも装飾古墳とは相性が悪いみたいな…

それにしても「自由に見られる」と言っても、古墳はもろに民家の軒先だった。
挨拶もしないのは気が引けたね。

装飾古墳に潜る!2024/01/28

Xで古墳好きをフォローしていると、小さな開口部から腹ばいで石室に潜らないと本物じゃないような気になってくる。

お隣の筑前町に、砥山(とやま)観音塚古墳という、石室に自由に入って見られる稀有な装飾古墳があるとXの投稿で知った。
近くにいながら今まで知らなかった。
おそらく石室へのイタズラを恐れて積極的には広報されていないのだろう。

大好きな装飾古墳なら行かねばなるまい。しかも古墳探訪に適した、虫の出ない今だ。
猿や猪が出る恐れはあるが、傘があれば何とか戦えるだろう。
砥山岳への山道を片道30分ほどかかるらしいが、まあ何とか歩けるだろう。

行ったのは1月4日。報告がだいぶ遅くなってしまった。

砥山神社に車を停めて、山道の入り口まで来たところで傘を忘れたのに気づいた。
うーーん、猿・猪と戦えないが、戻るのは面倒くさい。
そのまま進むと麓の分岐点に山登り用の杖が置いてあった。
助かる‼

それから30分余り、思ったよりきつかったが、ひーこら言いながら何とかたどり着いた。


さて、入り口は?と…


思ったより小さい!
180センチ、76キロの体が入るかな。
しかし、ここまで来たんだ。行かねばなるまい。
頭から果敢にダイブ❕❕


案内板を拡大してもらえば分かるが、この古墳は前室・中室・後室の三室構造。
上の写真は中室から後室をのぞんだところだ。
右の袖石にも装飾がある!
でも、後室奥壁が早く見たい!


おお、素晴らしい!
ドア越し、ガラス越しには何度も装飾古墳を見たことがあるが、さえぎるものもなく自らの力で前に立つのは初めてだ!

しかし「上ノ」という大馬鹿が落書きしてる…

それを目に入れないようにして観察し、写真を撮る。
船の絵が多い。
これは船団を組んで朝鮮半島に行ったということではないか?

気が済むまで見て、名残惜しくも石室を後にする。


再び30分かけて山を下りる。

念願のナマ装飾古墳は楽しかったが、この代償は大きかった。
往復1時間以上の山登り(沢登り)と石室への潜り込み。
変なところに力が入ったのか、翌朝、パンを食べているときに何か大きな硬いものを噛んだと思ったら奥歯が傾いて倒れた!
その日は博物館の展示解説ボランティアだったのでそのまま行ったが、香港からの大学生10人余りに解説している最中に、奥歯が取れて口の中に転がった。
幸いマスクをしていたので口に奥歯を含んだまま解説を続け、次に移動するときにそっと口から手に取ってポケットに入れた。

取れたのは奥歯そのものではなく、奥歯のかぶせものだった。
それから歯医者に3回通い、かぶせ直したのだった。

さらにもう一つ。
お気に入りのシチズンの電波腕時計が動かなくなった。
太陽電池なので日に当てないと止まるのだが、いくら日なたに置いていても針がピクリともしない。
古墳で湿気や変な菌が時計に入ったに違いない。
石室に潜る代償がこんなに大きいとは。

やはりお墓に入らせてもらうのだから、今度から何か〝おはらい〟的なことをしてから行うこととしよう。

砥上神社の案内板に興味深いことが書いてあった。
「伝承によれば、神功皇后が新羅出兵の兵士をここに集め、『中やど也』と語り、また、兵器を研がせたのでこの地を『砥上』と言うようになったという」
「(旧)町名の『やす』は、神功皇后がまつろわぬ在地の豪族・羽白熊鷲を滅ぼして『わが心すなわち安し』(日本書紀)と語ったことに由来する」

確かに砥山岳の森(杉が主体)は、羽白熊鷲が出てきそうな森であった。

日本人は可愛い鳥が大好き2023/12/04

これも「小郡の古墳展」から。
平安時代の千鳥を思わせる、可愛い鳥が8羽、鏡に描かれている。


津古生掛(つこしょうがけ)古墳(3世紀後半)の木棺に副葬されていた、方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)だ。


説明には、後漢晩期から三国(魏)時代に製作された可能性が高いとある。
また、ここには書いてないが、方格内の銘は「位至三公」だという。

この鏡が中国鏡だというのは、あくまで「可能性」である。
私見だが、中国人がこんな可愛い鳥を好んで描くだろうか。
私は国産鏡の可能性が十分あると思う。
実際、大野城市からも4羽の可愛い小鳥を描いた鏡が出ている。
大野城心のふるさと館で開催中の特別展「大鏡の世界」図録から転載させてもらう。


どうでしょうか?

さて、津古生掛古墳について、もう少し。
小郡市埋蔵文化財調査センターを講座等で訪ねたら、収蔵庫の一部が公開されているので是非のぞいてみてください。
いつか展示されたのであろう、こんな説明もありました。


こんな立派な前方後円墳が今は何も残っていません。
全長32mと大きくはないですが、3世紀後半ですよ。
なかなかあるもんじゃありません。
発掘調査の後、宅地造成で壊され、惜しいことをしました。

右のレプリカが、この古墳のシンボル「つこっこ」、鶏形土製品です。
墳丘のくびれ部付近から転落したものが三体、見つかりました。
本物もありますが、人気者で、貸し出されていることが多いそうです。

高松塚古墳は装飾古墳か2023/10/18

661年に筑紫の地で崩御した斉明天皇のルーツを訪ねて、今月9、10日、奈良県の飛鳥を歩いた。そのことについてはおいおい書くとして、今日は〝ついで〟に見た高松塚古墳について記したい。




実は、高松塚古墳の壁画は中国風なので全く興味がなかった。
飛鳥から帰福後、先日の15日に今度は念願の王塚古墳特別公開に行ったのだが、同日、遠賀川流域の古墳も同時に公開があり、有名なのにやはり中国風で敬遠していた宮若市の竹原古墳にも足を延ばした。


驚いたのは、絵が鮮明に見えたことである。もちろん撮影不可なので、建物の中にあった写真を掲載するが、ほとんどこのように見えた。こんなに鮮明に残っている装飾古墳は初めてである。


ガイドの方の口から「高松塚古墳」のことが出た。
モチーフの類似からやはり意識しているようである。
もちろん高松塚のほうがずっと有名で、壁画の見事さも知れ渡っているわけだが、ガイドが言うには、高松塚古墳は竹原古墳の100年以上も後であり、漆喰に絵の具で描いているから当然きれいで、対する竹原古墳は岩(大石)に直接描いているのだと。
言われてみればなるほどその通りである。
高松塚古墳は写真の解説版にもある通り、7世紀末から8世紀初め。竹原古墳は6世紀後半だから、百数十年も違う。高松塚は古墳時代も終焉した飛鳥時代なのだ。
もう一度、高松塚古墳の解説版に戻ってもらうと分かるように、高松塚古墳とキトラ古墳は「壁画古墳」と言って、装飾古墳とは区別されている。

直弧文について(番外編)2023/05/16

これって、直弧文じゃないですか。

しかも1939年に1400年前って、1939-1400=539、6世紀!
日本の古墳時代とぴったり合うじゃないか!

双脚輪状文について②2023/05/16

右が可愛すぎる、王塚古墳の双脚輪状文だ。

これは何を基にデザインしたものか?

スイジガイ説があるが、どうも形が似ていない。
私は内行花文鏡(左)だと思う。
ここに挙げたのはほぼ地元の筑前町のもので、王塚古墳にも近い。

ただ、鏡には二つの脚がない。

鏡を乗せる台か。

はたまた、勾玉かとも思う。

というのも、日本人にとって3つの大事な宝、鏡と剣と勾玉。
特に勾玉は金属器が伝わる前の縄文時代から弥生、古墳と、日本人が最も長く作り続けてきた宝である。
それなのに、装飾古墳に鏡(円文、同心円文)や刀剣は描かれているのに勾玉だけないのはおかしいからだ。

双脚輪状文について2023/05/16

直弧文についてはもっといろんな実例を集めるとして、双脚輪状文に話題を変えよう。

双脚輪状文は装飾古墳5カ所にしかない。
すなわち福岡の王塚、弘化谷、佐賀の田代太田、熊本の釜尾、横山である。

そのうち実物を見たのは弘化谷古墳1カ所だ。
といっても写真のような状態で、色が落ちているうえに暗いから、しばらく見ていると何となく見えてくればOKというものだ。
それでも実物を見るに越したことはない。

この双脚輪状文が一体何を表わしているのか謎なのだ。