靫の擬人化2024/03/06

装飾古墳の絵の中で、靫(ゆぎ)への執着がすごい。
靫とは矢を入れる道具。
もちろん戦場では重要だろうが、弓や大刀より熱心に描く理由がよく分からない。
たとえば王塚古墳は靫の絵で埋め尽くされている。


靫は石人にもなる。
たとえばチブサン古墳の石人がそうだ。
靫が擬人化されているのだ。


X(旧ツイッター)の古墳王子の投稿で、見事な靫の埴輪を見た。
本庄早稲田の杜ミュージアムにあるらしい。
古墳王子が「靫形埴輪4姉妹」と名づけているように、これも靫の擬人化だ。



またまた見学OKの装飾古墳へ2024/02/03

自由に見られる装飾古墳、ということで久留米市草野町の前畑古墳に行ってきた。

草野歴史資料館に車を停めて道を尋ねると、職員の男性が親切にも古墳近くまで案内してくれた

のだが…またポカをやってしまった。
どうも装飾古墳とは相性が悪いみたいな…

それにしても「自由に見られる」と言っても、古墳はもろに民家の軒先だった。
挨拶もしないのは気が引けたね。

装飾古墳に潜る!2024/01/28

Xで古墳好きをフォローしていると、小さな開口部から腹ばいで石室に潜らないと本物じゃないような気になってくる。

お隣の筑前町に、砥山(とやま)観音塚古墳という、石室に自由に入って見られる稀有な装飾古墳があるとXの投稿で知った。
近くにいながら今まで知らなかった。
おそらく石室へのイタズラを恐れて積極的には広報されていないのだろう。

大好きな装飾古墳なら行かねばなるまい。しかも古墳探訪に適した、虫の出ない今だ。
猿や猪が出る恐れはあるが、傘があれば何とか戦えるだろう。
砥山岳への山道を片道30分ほどかかるらしいが、まあ何とか歩けるだろう。

行ったのは1月4日。報告がだいぶ遅くなってしまった。

砥山神社に車を停めて、山道の入り口まで来たところで傘を忘れたのに気づいた。
うーーん、猿・猪と戦えないが、戻るのは面倒くさい。
そのまま進むと麓の分岐点に山登り用の杖が置いてあった。
助かる‼

それから30分余り、思ったよりきつかったが、ひーこら言いながら何とかたどり着いた。


さて、入り口は?と…


思ったより小さい!
180センチ、76キロの体が入るかな。
しかし、ここまで来たんだ。行かねばなるまい。
頭から果敢にダイブ❕❕


案内板を拡大してもらえば分かるが、この古墳は前室・中室・後室の三室構造。
上の写真は中室から後室をのぞんだところだ。
右の袖石にも装飾がある!
でも、後室奥壁が早く見たい!


おお、素晴らしい!
ドア越し、ガラス越しには何度も装飾古墳を見たことがあるが、さえぎるものもなく自らの力で前に立つのは初めてだ!

しかし「上ノ」という大馬鹿が落書きしてる…

それを目に入れないようにして観察し、写真を撮る。
船の絵が多い。
これは船団を組んで朝鮮半島に行ったということではないか?

気が済むまで見て、名残惜しくも石室を後にする。


再び30分かけて山を下りる。

念願のナマ装飾古墳は楽しかったが、この代償は大きかった。
往復1時間以上の山登り(沢登り)と石室への潜り込み。
変なところに力が入ったのか、翌朝、パンを食べているときに何か大きな硬いものを噛んだと思ったら奥歯が傾いて倒れた!
その日は博物館の展示解説ボランティアだったのでそのまま行ったが、香港からの大学生10人余りに解説している最中に、奥歯が取れて口の中に転がった。
幸いマスクをしていたので口に奥歯を含んだまま解説を続け、次に移動するときにそっと口から手に取ってポケットに入れた。

取れたのは奥歯そのものではなく、奥歯のかぶせものだった。
それから歯医者に3回通い、かぶせ直したのだった。

さらにもう一つ。
お気に入りのシチズンの電波腕時計が動かなくなった。
太陽電池なので日に当てないと止まるのだが、いくら日なたに置いていても針がピクリともしない。
古墳で湿気や変な菌が時計に入ったに違いない。
石室に潜る代償がこんなに大きいとは。

やはりお墓に入らせてもらうのだから、今度から何か〝おはらい〟的なことをしてから行うこととしよう。

砥上神社の案内板に興味深いことが書いてあった。
「伝承によれば、神功皇后が新羅出兵の兵士をここに集め、『中やど也』と語り、また、兵器を研がせたのでこの地を『砥上』と言うようになったという」
「(旧)町名の『やす』は、神功皇后がまつろわぬ在地の豪族・羽白熊鷲を滅ぼして『わが心すなわち安し』(日本書紀)と語ったことに由来する」

確かに砥山岳の森(杉が主体)は、羽白熊鷲が出てきそうな森であった。

筥崎宮の「敵国降伏」とは2024/01/08

古墳で初日の出2024/01/01

うちの近くの横隈山古墳の上から初日の出を拝んだ。
360度見渡せるので、20人余りが集まった。
20分かかって雲のすき間から顔を出してくれた。
今年も墳活はするが、今年は古代だけでなくもっと広く日本史をやらなければならないと思っている。

そのあとは隼鷹神社へ。
ここは仲哀天皇が熊襲征伐に来られたときに、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が鷹となって現われ、大きな松の木にとまったことから隼鷹天神として祀ったといわれる由緒ある神社だ。
財布の小銭が空っぽで、お賽銭なしでお参りしたが、紙コップの御神酒とするめ、昆布、みかんをもらってしまった。
今度お賽銭を持って来よう。

玉にどうやって穴を開けたのか2023/12/15

九州歴史資料館で展示中の福岡市の西新町遺跡(4世紀)のギャラリートークでは、同遺跡から朝鮮へは「玉」を輸出し、朝鮮からは鉄の原料を輸入していたという興味深いことを聞いた。

だが、私のアノ質問にはまたしても回答が得られなかった。

荒涼たる九大箱崎キャンパス2023/12/13

九州大学の箱崎キャンパスに初めて行ってみた。

九大といえば、高校時代、先生から「受けろー、受けろー」とうるさく言われたものだが、それへの反発もあって、全く眼中になかった。
鶴丸高校としては、全国の高校相手には東大合格者数や国立大医学部合格者数が重要だったが、九州内や同じ鹿児島市内の高校に対しては九大合格者数でも負けてはならなかったのである。
なにしろ百人は送り込まないと勝てないのだ。

しかし、そんなのは先生や学校の勝手である。
生徒にとっては勝手に人生の進路を決められるという、全くもって迷惑な話だ。
進路指導なんてものはなかったに等しい。
とにかく勉強のできる者から順に、東大、国立大医学部を強制的に勧められ、そこに達しないグループには九大を受けさせる。そこにも届かない者は関心の外だ。

3年の時の担任の東憲治先生に、京都大学を受けると言っても許してもらえず、じゃあ一橋!いやダメってわけで、願書提出期限までなかなか決まらなかった。
とうとう私も訳が分からなくなって、やけのやんぱちで名古屋大学にすると言った。
名大も一流大学ではあるが、鶴丸から受ける者などいない。
どうしても九大がイヤだったのだ。それだけだった。

ところが、東先生もこんにゃろー勝手にしろと思ったのか、なんと許しが出た。

この先生には遺恨があった。
夏頃だったか、夜中、近くの同級生の家に4人ほど集まって、ウイスキーをかっくらった。
飲み方を知らないから、コップにそのまま注いで生(き)で一気飲みだ。
翌日、3人は何食わぬ顔で登校したが、1人が二日酔いで欠席した。
しかもあろうことか、そいつは一緒に飲んだメンバーをばらした。
私は階段の踊り場で東にビンタを食らった。

まあ、これは自分らが悪いから仕方がないが、もう一つは許せない。

帰りのバスで居眠りして、開いていた窓から帽子を落としてしまった。
慌てて次のバス停で降りて探したが、見つからなかった。
翌朝、帽子なしで登校すると、服装に目を光らせていた東はすぐ「帽子はどうした」と聞いた。
「なくしました」
「新しいのを買いなさい」
(え⁉)
もう3年生の3学期である。入試等もあって、学校に行くのはわずかだ。
それなのに新品を買えと言う。母にお金をもらうのも申し訳ない。
こういうとき私は悲しいかな、うまくアドリブで口ごたえができない。
結局、新しい帽子を買い、わずか数回だけ学校にかぶっていった。

帽子を落とした私は、名大も落ちた。
入試は見たこともない問題ばかりだった。
入試問題にここまで地域性があるとは想像もしていなかった。
だから鶴丸では九大の過去問ばかりやらされたのだ。
あるいは東京の大学を受ける者が多いので、そういう傾向と対策も。
だから早稲田の試験では、見たこともない問題が並ぶようなことはなかった。
東先生も私が痛い目に遭うことは分かっていただろう。

今でも思う。
希望は通らず、受けたくもない名大を受ける必要があったのか(しかも落ちた)。
先生にそんな権利があるのか。

東先生はその後、鶴丸の校長になった。まあ順当な出世かもしれないが、本人は教育長を狙っていたと私はにらんでいる…。

まあ、それやこれやの九大である。


目的は九州大学総合研究博物館である。
九大の本体は糸島に移転したと仄聞していたものの、跡地の箱崎キャンパスがこんなに荒涼としているとは驚いた。
旧工学部本館がぽつんと残されて博物館になっているのだ。
中に入ってみる。


ほかに見学者もなく、しんとした中にアンモナイトの化石から始まって、いろんな遺物が無造作に置いてある。
さすが、箱崎にあった110年の歴史が迫ってきて迫力がある。
夢野久作のドグラ・マグラの世界だ。
1、2、3階とたっぷりたんのうした。
もっとも人骨の部屋とかは恐ろしくてドアを開ける勇気はなかったが。

九大総合研究博物館は令和9(2027)年度にリニューアルオープンするそうだ。
このおびただしいお宝を死蔵させておく手はない。
私も微力ながら関わりたいと思っている。

あんなに逃げ回っていた九大と、50年近く後に縁ができそうだ。
それもまた人生だろう。