隼人は縄文・弥生人ではない2022/11/13

南九州の隼人といえば、古代人、その中でも縄文・弥生あたりの人々というイメージではないだろうか。

ところが、ところが…。

ココはしむれを出てすぐのところに、橋牟礼川遺跡がある。
そこには「隼人の民家」という竪穴式住居が復元されている。

クリックして説明文を読んでほしい。

西暦700年頃のもの、とある。

縄文・弥生どころか、古墳時代を過ぎて飛鳥時代となってその最終盤、奈良時代も目前という時代である。

文献上では、7世紀の終わりごろ(682年)から9世紀の初め(805年)にかけて、南九州の人々は当時の中央政府から「隼人」と呼ばれていた。

なんと平安時代の初めまで、である。
意外と最近(?)の人たちなのだ。

それにしても、隼人に限らず、日本の一般の人々はどうして縄文から奈良までの長い長い間、一万年にも及ぶ間、竪穴式住居なんて粗末なものに住み続けたのだろう。

古墳にはあんなに立派な石室を築いているのだ。
石造りの家なんて簡単につくれただろう。

少し前にポンペイの話をずいぶん書いた。
ポンペイでは紀元一世紀に街全体を石で造っており、豪邸や公共施設が火山灰の下から出てきている。

実は橋牟礼川遺跡も「東洋のポンペイ」と呼ばれている。
近くの開聞岳が大噴火を繰り返した。
特に縄文時代後期(約4000年前)、弥生時代中期(約2000年前)、西暦675年頃、そして874年の噴火で最終的に完全に埋まってしまった。

ポンペイ同様、当時の暮らしが封印された貴重な遺跡とはいえるものの、ただ、まあ、ポンペイのように石造りの街が丸ごと出てきたという感じではない。

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