『林芙美子が見た大東亜戦争』 ― 2024/07/07
この本はいつか注目されるはずと信じてきましたが、これがきっかけになるといいなと思います。
この徳永信一さんとはXで相互フォローしてます。
反日の左翼弁護士が目立つ中で、徳永さんの歴史認識は共感できることばかりです。
もちろん彼は私の正体を知りませんので、この本に偶然目をつけて取り上げてくれたのはうれしかった。
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反日の左翼弁護士が目立つ中で、徳永さんの歴史認識は共感できることばかりです。
もちろん彼は私の正体を知りませんので、この本に偶然目をつけて取り上げてくれたのはうれしかった。
林芙美子がこんなのを書いていたとは知らなかった。早速、買って読まなければ。旧軍は「放浪記」を退嬰的と見て林芙美子を批判的に見ていたとさえ思い込んでた。しかし彼女であれば軍に迎合したり忖度したりはしないだろうな。 https://t.co/0T2obkntgW
— 弁護士 徳永信一 (@tokushinchannel) July 6, 2024
今日のひとこと(前田日明) ― 2024/07/11
よく「民族の誇り」とか言うんですけど、基本的に言うとね、大陸っていうのは易姓革命で、日本みたいに島国でね、色んな民族が残るとかそういうのは無いんですよね。
皆殺しに次ぐ皆殺しで、そんなもの残らないんですよ、ひとつの民族がずーっと。
今韓国にいる人たちだって、民族としての誇りとかそういう考え方自体、朝鮮総督府の義務教育によって植え付けられた遺産ですよ。元々そんなもの無かったんですよ。中国でも半島でも、民族がどうのこうのって言う人なんかいないですよ。
日本は仮にも神武天皇から続く皇室があって、その中でモンゴルが攻めてきたけど、それも跳ね返してずーっと続いてきたっていうのがあるから、そういう民族の誇りっていうのがあるかもわからないけど、大陸は無いですよ。
~Xで拾った前田日明インタビュー~
前田氏は在日三世らしい。
彼の生の言葉で語られると、「中国は易姓革命で、皆殺しに次ぐ皆殺し」ということが知識としてではなく、実に生々しく実感として伝わった。
中国人は民族としてのアイデンティティーがないので限りなく残虐になれるということ。
たまたま今日届いた、加藤康男『通州事件の真実』(草思社文庫)の中に、通州事件を実際に目撃した佐々木テンさんという人の証言がかなり長く引用されていた。
〝南京事件〟で日本人が中国人にやった虐殺というものは、本当は中国人が日本人にやったことをそのまま日本人がやったことにして、すり替えて言ってるんだとよく聞くが、まさにそうだったんだろうとこの証言を読むとあらためて確信する。
ぜひ読んでもらいたい。
そしてこんな中国人が日本を今乗っ取りつつあるというのは、絶対に阻止しなければ大変なことになると思うのだ。
皆殺しに次ぐ皆殺しで、そんなもの残らないんですよ、ひとつの民族がずーっと。
今韓国にいる人たちだって、民族としての誇りとかそういう考え方自体、朝鮮総督府の義務教育によって植え付けられた遺産ですよ。元々そんなもの無かったんですよ。中国でも半島でも、民族がどうのこうのって言う人なんかいないですよ。
日本は仮にも神武天皇から続く皇室があって、その中でモンゴルが攻めてきたけど、それも跳ね返してずーっと続いてきたっていうのがあるから、そういう民族の誇りっていうのがあるかもわからないけど、大陸は無いですよ。
~Xで拾った前田日明インタビュー~
前田氏は在日三世らしい。
彼の生の言葉で語られると、「中国は易姓革命で、皆殺しに次ぐ皆殺し」ということが知識としてではなく、実に生々しく実感として伝わった。
中国人は民族としてのアイデンティティーがないので限りなく残虐になれるということ。
たまたま今日届いた、加藤康男『通州事件の真実』(草思社文庫)の中に、通州事件を実際に目撃した佐々木テンさんという人の証言がかなり長く引用されていた。
〝南京事件〟で日本人が中国人にやった虐殺というものは、本当は中国人が日本人にやったことをそのまま日本人がやったことにして、すり替えて言ってるんだとよく聞くが、まさにそうだったんだろうとこの証言を読むとあらためて確信する。
ぜひ読んでもらいたい。
そしてこんな中国人が日本を今乗っ取りつつあるというのは、絶対に阻止しなければ大変なことになると思うのだ。
不謹慎かもしれませんが ― 2024/07/14
松山城の「城山」が崩れて犠牲者が出ました。
あまりに鹿児島市の城山に似ているので少々驚きました。
私の「城山崩壊」を読んでいただくと、なにがしかの参考になるかもしれません。
あまりに鹿児島市の城山に似ているので少々驚きました。
私の「城山崩壊」を読んでいただくと、なにがしかの参考になるかもしれません。
松山城の工事と土砂崩れの関係を調査へ|NHK 愛媛のニュース https://t.co/NiM0dxduR0
— 閑古鳥旅行社 (@kankodori) July 14, 2024
12日に愛媛県の松山城がある山で発生した土砂崩れで、13日、山のふもとの住宅に住む家族3人が見つかり、死亡が確認されました。山の頂上付近では、去年夏の大雨による被害が確認されていましたが、復旧工…
フランス革命の本質がパリ五輪に現われた ― 2024/07/28
パリ五輪の開会式で、驚くべきことにマリー・アントワネットをあらためて侮辱した!
日本人が無邪気に信じている、フランス革命に端を発する「自由」がいかに恐ろしいものかを書きたい。
東京帝国大学助教授、36歳の平泉澄は昭和5年(1930)3月24日、横浜港から香取丸に乗って旅立った。
インド洋、紅海を経て、マルセイユに上陸したのが5月4日。
5カ月にわたってドイツの5つの大学を回ったあと、10月にフランスに入った。フランス革命の本質を究明するためである。
「幕末より既に我国に影響を与へ、明治に入つては西園寺公望、中江兆民等、フランス革命危激の思想を伝へて之を鼓吹するや、その暗雲低迷して時に迅雷人を驚かし、そして大正六年ロシア革命以後に於いては、その勢力倍化し数十倍化して、青年学徒の間に蔓延して行つたのでありますから、明治・大正・昭和に関する限り、フランス革命及びロシア革命を除外して、国史を考へる事は出来ないのであります」(『悲劇縦走』)
しかも「大抵は革命の徒のいふがままに、革命は王侯貴族の奢侈横暴、苛酷なる政治に堪へ切れずして起されたもの、その目標とし理想とする所は、自由、平等、博愛の三つであり、それは一七八九年以来掲げられて、運動の前途を照らす目標となつて来たのである、と説かれてゐるのであります」
平泉はこの説に深い疑いを抱いた。
革命当時の遺品、文書、記録だけに徹して史料を探し回った。7つの図書館、博物館のほか、古本屋や骨董屋でも史料を買い求めた。
そうして次の断案(結論)を下した。
①1789年に革命の標語になったのは、リベルテ(自由)だけだった。
②1792年にエガリテ(平等)が加わった。
③フラテルニテ(博愛)は散見するものの、自由・平等・博愛と、三つが肩を並べるのは1848年である。
平泉は自分の断案を3人の教授にぶつけた。はじめの2人は、3つとも革命当初からのものだと言って否定した。
3人目の教授は平泉の説をあっさりと認めた上で、1848年の二月革命時にラマルティーヌ(詩人で政治家)が博愛を加えたのだと断言した。平泉は自分の結論に自信を得た。
これが何を意味するか。
もしフランス革命が当初から自由・平等・博愛を理想として掲げていれば、あの忌まわしい弑逆、戦慄すべき殺戮は行われずに済んだと平泉は言う。
しかし、彼らは国王ルイ十六世、王妃マリー・アントワネットを殺し、恐怖時代といわれる1793年から翌年にかけて一万を超える人々を殺したのである。
フランス革命の歴史には修飾や欺瞞があり、それがそのままわが国に輸入されて革命の宣伝や鼓吹に用いられていることがはっきりした。
平泉はさらに作家のポール・ブールジェに接触を図る。
高齢と避暑を理由に断られるものの、代わりに読むべき良書――バルザック、ルブレー、テーヌ――を指示された。
この結果、平泉は「無限の教訓」を得た。
フランスにあってさえ、心ある人々によって、革命が決して王侯貴族の不当な抑圧によってやむを得ず起こされたものでなく、抽象的な空理空論によってみだりに自由・平等を希求し、競争・憎悪の感情を激発して他を破壊し自らをも破壊したこと、これを救うものは伝統にほかならないという思想運動が展開されていることをを知ったのである。
平泉は日本に帰ったら、明治初年以来、西園寺公望や中江兆民らによって伝えられた革命論を打破しようと決意する。
昭和6年(1931)4月、パリからロンドンに移動してからもフランス革命の研究を続けた。
そして出会ったのが、エドモンド・バーク著『フランス革命の考察』(1790年発行)である。
バークはアイルランド生まれの政治家。フランス革命から1年数カ月後にはこの本を刊行した。
平泉言うところの「フランス革命を、フランスの為に悲しむのみならず、全人類の為に悲しむべき不祥事として、之を批判し、之を憎悪したもの」。当時次々と版を重ねていることを、大英博物館の蔵書で平泉は確認している。
一方、バークの本に反対して書かれた、トーマス・ペーン著『人権』(1791年)もまた負けじと売れて、英国の思想界はバークとペーンとで二分されたらしい。しかし結局、バークの主張がまさった。
「バークの功績は、ひとりフランス革命の影響を喰止め、英国を顛落より救つたばかりでなく、保守主義の根本義を明かにして、ほしいままなる思弁に出で、抽象的なる批判を逞くする時は、すべての宗教、道徳、制度は破壊せられて無政府主義に陥る外は無いと説いて、それが保守党を力づけた所に在ります」
こうして同書は保守主義の古典として、230年読み継がれる超ロングセラーとなっている。
今すぐに手に入る日本語訳でも三種類ある。
筆者の手元にあるのは『【新訳】フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』(2011年、PHP新書)だ。編訳者の佐藤健志が、フランス革命の急進主義についてプロローグに書いている。
「社会を急速かつ徹底的につくりかえようとする試みは、以後の『革命』の基本形となる。全体主義や社会主義はむろんのこと、明治維新をきっかけとしたわが国の近代化・欧米化や、敗戦後にわき起こった民主主義礼賛なども、急進主義の影響を抜きには考えられない」
日本人が無邪気に信じている、フランス革命に端を発する「自由」がいかに恐ろしいものかを書きたい。
東京帝国大学助教授、36歳の平泉澄は昭和5年(1930)3月24日、横浜港から香取丸に乗って旅立った。
インド洋、紅海を経て、マルセイユに上陸したのが5月4日。
5カ月にわたってドイツの5つの大学を回ったあと、10月にフランスに入った。フランス革命の本質を究明するためである。
「幕末より既に我国に影響を与へ、明治に入つては西園寺公望、中江兆民等、フランス革命危激の思想を伝へて之を鼓吹するや、その暗雲低迷して時に迅雷人を驚かし、そして大正六年ロシア革命以後に於いては、その勢力倍化し数十倍化して、青年学徒の間に蔓延して行つたのでありますから、明治・大正・昭和に関する限り、フランス革命及びロシア革命を除外して、国史を考へる事は出来ないのであります」(『悲劇縦走』)
しかも「大抵は革命の徒のいふがままに、革命は王侯貴族の奢侈横暴、苛酷なる政治に堪へ切れずして起されたもの、その目標とし理想とする所は、自由、平等、博愛の三つであり、それは一七八九年以来掲げられて、運動の前途を照らす目標となつて来たのである、と説かれてゐるのであります」
平泉はこの説に深い疑いを抱いた。
革命当時の遺品、文書、記録だけに徹して史料を探し回った。7つの図書館、博物館のほか、古本屋や骨董屋でも史料を買い求めた。
そうして次の断案(結論)を下した。
①1789年に革命の標語になったのは、リベルテ(自由)だけだった。
②1792年にエガリテ(平等)が加わった。
③フラテルニテ(博愛)は散見するものの、自由・平等・博愛と、三つが肩を並べるのは1848年である。
平泉は自分の断案を3人の教授にぶつけた。はじめの2人は、3つとも革命当初からのものだと言って否定した。
3人目の教授は平泉の説をあっさりと認めた上で、1848年の二月革命時にラマルティーヌ(詩人で政治家)が博愛を加えたのだと断言した。平泉は自分の結論に自信を得た。
これが何を意味するか。
もしフランス革命が当初から自由・平等・博愛を理想として掲げていれば、あの忌まわしい弑逆、戦慄すべき殺戮は行われずに済んだと平泉は言う。
しかし、彼らは国王ルイ十六世、王妃マリー・アントワネットを殺し、恐怖時代といわれる1793年から翌年にかけて一万を超える人々を殺したのである。
フランス革命の歴史には修飾や欺瞞があり、それがそのままわが国に輸入されて革命の宣伝や鼓吹に用いられていることがはっきりした。
平泉はさらに作家のポール・ブールジェに接触を図る。
高齢と避暑を理由に断られるものの、代わりに読むべき良書――バルザック、ルブレー、テーヌ――を指示された。
この結果、平泉は「無限の教訓」を得た。
フランスにあってさえ、心ある人々によって、革命が決して王侯貴族の不当な抑圧によってやむを得ず起こされたものでなく、抽象的な空理空論によってみだりに自由・平等を希求し、競争・憎悪の感情を激発して他を破壊し自らをも破壊したこと、これを救うものは伝統にほかならないという思想運動が展開されていることをを知ったのである。
平泉は日本に帰ったら、明治初年以来、西園寺公望や中江兆民らによって伝えられた革命論を打破しようと決意する。
昭和6年(1931)4月、パリからロンドンに移動してからもフランス革命の研究を続けた。
そして出会ったのが、エドモンド・バーク著『フランス革命の考察』(1790年発行)である。
バークはアイルランド生まれの政治家。フランス革命から1年数カ月後にはこの本を刊行した。
平泉言うところの「フランス革命を、フランスの為に悲しむのみならず、全人類の為に悲しむべき不祥事として、之を批判し、之を憎悪したもの」。当時次々と版を重ねていることを、大英博物館の蔵書で平泉は確認している。
一方、バークの本に反対して書かれた、トーマス・ペーン著『人権』(1791年)もまた負けじと売れて、英国の思想界はバークとペーンとで二分されたらしい。しかし結局、バークの主張がまさった。
「バークの功績は、ひとりフランス革命の影響を喰止め、英国を顛落より救つたばかりでなく、保守主義の根本義を明かにして、ほしいままなる思弁に出で、抽象的なる批判を逞くする時は、すべての宗教、道徳、制度は破壊せられて無政府主義に陥る外は無いと説いて、それが保守党を力づけた所に在ります」
こうして同書は保守主義の古典として、230年読み継がれる超ロングセラーとなっている。
今すぐに手に入る日本語訳でも三種類ある。
筆者の手元にあるのは『【新訳】フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』(2011年、PHP新書)だ。編訳者の佐藤健志が、フランス革命の急進主義についてプロローグに書いている。
「社会を急速かつ徹底的につくりかえようとする試みは、以後の『革命』の基本形となる。全体主義や社会主義はむろんのこと、明治維新をきっかけとしたわが国の近代化・欧米化や、敗戦後にわき起こった民主主義礼賛なども、急進主義の影響を抜きには考えられない」
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