電子書籍を公開しました!2024/04/23

『城山崩壊』

オドケンとトリキョウの新聞記者同期コンビが難事件を解決する!

鹿児島県霧島市の花丸製菓が倒産した。負債総額は800億円超。同じ日の午後、突然、鹿児島市は未曽有の豪雨になる。中心部の城山が崩れ、花村製菓の常務宅が埋まる。倒産の当日、鍵を握る財務担当重役が崖崩れで死ぬとは!不思議だが、天災だ。偶然としか言いようがない。家を寸前で飛び出し、難を逃れた同社社長秘書の地頭園は大学で地質学を学んでおり、前年も崩れた城山の危ない状態は分かっていたはず。南国日日新聞記者の踊橋健一と鳥原恭子の同期コンビは、「崖崩れで人を殺せるか」と推理を展開するが次々と覆されていく。

330円ですので、お気軽にどうぞ💛
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なぜ巨大地震の予想は当たらないのか2024/01/03

私が東京で学生生活を送っていた45年前から、首都圏直下型地震はいつ起こってもおかしくないと騒がれていた。
だから就職は東京ではしたくないと思ったほど、地震予知というのは人生に大きな影響を与える。

しかし、その後、首都圏直下型地震は起こっていない。
代わりに近年騒がれているのは南海トラフ巨大地震だ。
これが起こったら日本は壊滅的な被害を受けるといわれている。

しかしこれも起こらないまま、震度7を観測した大地震は別の場所で起こり続けている。ご存じのとおり震度7は最も大きく、これ以上はない。

1995年1月17日 阪神淡路大震災(M7・3)

2004年10月23日 新潟県中越地震(M6・8)

  11年3月11日 東日本大震災(M9・0)

  16年4月14日 熊本地震(M6・5)

       16日 熊本地震(M7・3)

  18年9月6日 北海道胆振東部地震(M6・7)

  24年1月1日 能登半島地震(M7・6)

いずれも首都圏でも南海トラフでもない。
なぜこれほど巨大地震は予知・予測できないのか。

それは端的に言って、地震噴火予知が学問になっていないからだと思う。
学者はたくさんいる。

私は南日本新聞で年間企画「火山と人間」の取材班の一人として、地震噴火予知連絡会のトップと親しくなって自宅まで招かれたり、ハワイでの国際火山シンポジウムを取材したりした。

火山学者(イコール地震学者)はどうも「地球の中のことは数万年単位であって短期のことはよく分からない」と言って憚らないところがあった。
分からないで済むのなら学問とは言えない。

今はもうそんな言い方は許されないだろうが、相変わらず地震噴火予知はできないのが現状だ。

東日本大震災後、観測網ははるかに整備されているようだが、それでも地震速報を発生の2、3秒前に出せるようになったくらいだ。

羽白熊鷲飛行の可能性2023/12/24

日本書紀神功皇后紀に「其爲人强健、亦身有翼、能飛以高翔」と記された羽白熊鷲については何度も書いてきたが、あらためて羽白熊鷲は実際に翼をつけて滑空していたのではないかと思った。

江戸時代に浮田幸吉(1757- 1847年)という、空を飛んだ鳥人がいたからである。

玉にどうやって穴を開けたのか2023/12/15

九州歴史資料館で展示中の福岡市の西新町遺跡(4世紀)のギャラリートークでは、同遺跡から朝鮮へは「玉」を輸出し、朝鮮からは鉄の原料を輸入していたという興味深いことを聞いた。

だが、私のアノ質問にはまたしても回答が得られなかった。

仲哀天皇の死の謎2023/12/06

小郡市大保(おおほ)にある御勢大霊石(みせたいれいせき)神社。
イオン小郡に行くとき必ず前を通る、なじみの神社だ。


ここはケタ外れに立派な由緒を持つ。


この案内板では、仲哀天皇は筑前の橿日宮(香椎宮)で崩御したのに、どうして神功皇后が三韓征伐時に亡き仲哀天皇の御形代とした石を筑後のこの地に祀ったのかがつながらない。
そのあたり、神社のパンフレット(賽銭箱の横の箱に入っている)が詳しいので、そちらで説明しよう。

仲哀天皇は熊襲征伐のため、橿日宮の本陣から軍を進めて大保まで来たところで、宝満川の清浄な地が気に入り、字(あざ)龍頭に仮陣地を置いた。
それについては境内の別の案内板にも記してある。


さて、天皇が近臣を従えて戦線を見回っていると、なんと敵の毒矢が当たって、天皇はあっけなく崩御してしまう。戦死である。
神功皇后は兵士たちの士気が下がるのを恐れて、天皇の死を隠して殯葬した。


熊襲を征伐した後、ご崩御を布告し、柩を橿日宮に移して喪に服した。

そのあと神功皇后は、石に仲哀天皇の鎧・兜を着せて軍船に乗せ、三韓征伐に向かった。
戦いに勝って凱旋すると、石を大保の殯葬の地に祀り、御勢大霊石として崇めたという。
御勢の勢(せ)とは夫(せ)のことだという。


以上が御勢大霊石神社の由緒である。
ところが、記紀では仲哀天皇の崩御のさまが全く違う。

まず日本書紀では、橿日宮(香椎宮)で神功皇后を通して神託があり、熊襲ではなく新羅国を討つようにとのことだった。
仲哀天皇は神託を信じず、熊襲を討った。ところが、勝てずに帰った。
そのあと天皇は急に病気になって、翌日には死んでしまう。
つまり、神のお告げに従わなかったので亡くなったということだ。
御勢大霊石神社の由緒の「戦死」とは丸きり異なる。

古事記ではまた違う。
香椎宮で神託を聴くのは同じだが、仲哀天皇が琴を弾いて、神功皇后に神が乗り移るのである。
神は「西方の国を私が帰服させよう」と言うのだが、ここでも天皇は耳を貸そうとしない。神は激怒する。
大臣の建内宿禰が慌てて「琴をお弾きください」と勧めるが、やがて琴の音がしなくなって既に天皇は死んでいたのである。
つまり、古事記では熊襲と戦う前に崩御しているのだ。戦死どころではない。

こうなると、権威ある記紀の記述のほうを信じたくなる。
神社の由緒といっても、伝承みたいなもんだろう…と。

しかし、である。
古事記のほうは、仲哀天皇の崩御後、神功皇后は神託通り新羅征討に行くので矛盾はない。
ところが、日本書紀では、新羅に向かわず、神の怒りを買ったはずの熊襲征伐に向かうのである。
すなわち鴨別(かものわけ)に命じて熊襲の国を討たせ、服従させた。
さらに、前回書いたように、神功皇后自ら、羽白熊鷲や田油津媛を討ち滅ぼす。

これは、夫の仲哀天皇を殺されたことに対する、復讐の掃討戦だったのではないか。
そう考えると、御勢大霊石神社の由緒が一番、筋が通っている。

さて、今年10月に大阪に2泊して、藤井寺市の仲哀天皇陵も見てきたので、紹介しておこう。






九州で不遇な死を遂げた仲哀天皇も、故郷にこんな立派な陵墓をつくってもらって、少しは救われたというべきか。

飛鳥では、やはり九州で亡くなった斉明天皇の陵も見てきたが、そのうち機会を見て紹介したい。

管玉にどうやって穴を開けたのか2023/11/04

今日は研修で熊本城に行った。

昼食休憩時に一人熊本博物館へ。このような展示があった。

以前から管玉(勾玉も)に古代の人々はどうやって穴を開けたのかが分からない。

「管玉の穿孔技法」とあるので大いに期待を持って見た。

孔(穴)の形には円柱形と円錐形があって、これは穿孔に使用する工具が違うことを示している、とある。

ところが、肝心のその工具がどのようなものだったか、については何も示されていないのだ。謎のままだ。

リアル羽白熊鷲2023/06/04


今年2月1日付で2回にわたって「羽白熊鷲」について書いた。
その名の通り、翼があって高く飛ぶことができたという。
鳥人か鳥装した司祭か、はたまた天狗の元祖かと考察してきた。

まさに打ってつけのビジュアルを見つけた。
東博の古代メキシコ展で近く展示される、鷲の戦士像である。
どちらも鷲であるところが興味深いが、時代はかなり違う。
鷲の戦士像はアステカ文明の1469~86年。
羽白熊鷲は神功皇后の時代、4世紀である。1100年違う。

古代メキシコ展は10月、九博にも巡回する。
170cmもあるという、鷲の戦士像に会えるのが楽しみだ。

ところで、羽白熊鷲が神功皇后に討たれた「層増岐野(そそきの)」という所は、語感からして今の筑紫野(つくしの)だと考えている。
というのも、熊鷲を討って皇后は「心安らかになった」として、そこを安(夜須)と名づけたからだ。
夜須は現在、筑前町だが、筑紫野市との境にある。

そうすると、羽白熊鷲が「命尽くしの神」として筑紫神社に祀られたというのが地理的にも自然である。