貝の仮面もあるでよ2023/11/04

土器の違いは食生活の違い?2023/06/03

複雑怪奇な縄文土器が、なぜシンプルな弥生土器に劇的に変わったのか、正直よく分からなかった。
こういう根本的な問題ほど、明快な説明がないのは世の常。

福岡市博物館の展示にヒントがあった。

弥生時代は水田稲作が始まった時代。
当然、炊飯は土器だ。

新しい形の煮炊き用土器が普及し始める(板付式)。
ふちが外に張り出して蓋をかけやすい(のせやすい)、持ちやすいという。

大型の土器でいろんな食材をごった煮にした縄文時代と、米だけを炊く土器が現われた弥生時代の違いということかな。

しかし、なぜ弥生土器の蓋は出ないんだろう。
いや、正確に言うと、土器の蓋は出ているようだ(見たことはないが)。
でも普通に考えて木製の蓋を使っていたと思うのだが、木だから腐って残っていないんだろうか。

また、縄文と弥生とのデザインの違いは、素人考えだが、縄文の食事がある意味、祝祭的な空間だったのに対して、弥生ではそうした意味を失ったせいではないだろうか。

貝輪(オオツタノハ)2023/05/29

縄文・弥生の遺跡から出土する貝輪が気になっている。

例えば、飯塚市・立岩遺跡の34号甕棺(弥生時代中期後半)から出た成年男性人骨の右前腕には貝輪14個が装着されていた。

古代のお宝というと、鏡・剣・勾玉が代表だが、それに負けず劣らず貝のアクセサリーも古代人は大好きだ。

貝についてももっと知りたい。

千葉・市原市埋文センターの忍沢成視という人が書いた研究ノート「貝の考古学」が、ネットで目についた。

それによると、貝輪の素材は縄文時代後半にはベンケイガイが主流となる。
しかし、忍沢さんは全体から見ると決して多くはないオオツタノハの貝輪に目をつける(東日本全域で200点ほど)。

オオツタノハが近海にいないのはおかしいと、10年に及ぶ調査でようやく伊豆諸島南部に生息するオオツタノハを捕獲したという。
「東の貝の道」を発見したわけだ。

もともと有名なのは南西諸島の「西の貝の道」だ。
ゴホウラ、イモガイ、ヤコウガイ、スイジガイ、そしてオオツタノハといった貝。
参照写真は黎明館のもの。5/15の写真も見てほしい。

忍沢さんは種子島でも調査を始める。
少数の島民はオオツタノハを食用に獲っていたという。
食べてみると極めて美味だった。

3000年の時を隔てて2023/05/27

写真左は言わずと知れた、隼人の盾(鹿児島県歴史資料センター黎明館展示物)。
奈良市の平城宮跡の井戸から出土した、在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾とされている。

この特徴的な文様が、縄文時代の石製品にも刻まれていたとは驚きだ(九州国立博物館4Fに展示中)。
3000年以上の時代差がある。

しかも秋田(蝦夷)と隼人が同じ文様を使っていたところに、深ーい意味がありそうだ。

さらに言えば、この逆S字文様は、最近私が探っている装飾古墳の蕨手文にも通じる。

蕨手文と盾は、装飾古墳の代表的なテーマだ。
装飾古墳が熊本・福岡に多いことを考えれば、なんらかの対隼人の意味を持たせていることが考えられる。

うーん、今後は直弧文より蕨手文の研究が必要だなぁ。

隼人の盾をシンボルマークにしている奈良文化財研究所のブログ (2014年11月20日付)で面白い記述を見つけた。

「九州に息づく伝統文様?」と題して、隼人の盾と装飾古墳とを結びつけているのだ。

「話は200年ほど遡ります。5~6世紀の福岡県や熊本県地方には、壁画を描いた装飾古墳が数多く造られました。その壁画の文様には、赤白黒の顔料で鮮やかに描かれたS字のような蕨手(わらびて)文や三角形文、そしてギザギザ文様など、隼人の盾と似た文様が数多く見られます。
 それら装飾古墳の場所と隼人が住んだ地域は少し異なり、時代も違いますが、同じ九州のよく似た文様を見ると、時代を越えた不思議な伝統が息づいているように私には見えるのですが…。」

そこで終わっているのだが、私はその先を考えたい。

南北九州の交流(塞ノ神式土器③)2023/05/15

昨日14日は鹿児島市の黎明館にも行ったが、そこにも塞ノ神式土器があった。

南北九州の交流(塞ノ神式土器②)2023/05/15

鹿児島市のふるさと考古歴史館を久しぶりに訪ねて驚いた。

こんなに展示が充実しているとは。

リニューアルしたのか、それともこちらの知識が増して面白く感じられるようになったのか。

おそらく両方だろうが、やはり佐賀市の東名縄文館を訪ねていたおかげで、同じ塞ノ神式土器に出会ったりするとより一層興味深いのだ。

ところで、塞ノ神(せのかん)遺跡は伊佐郡菱刈町田中(現在は伊佐市)にある。

発掘調査は行われておらず、縄文土器や弥生土器、多種の石器が表面採集された。
塞ノ神式土器は多くの研究者によって論じられてきたが,1972年河口貞徳氏によってA(a,b)式からB(c,d)式に4細分され、南九州を代表する縄文時代早期の一型式となったという。

菱刈町なら大河・川内川が流れているので、縄文時代の丸木舟でも東シナ海に出るのは容易だろう。、
それから有明海を沿岸や島伝いに北上すれば、佐賀の東名まで行くのはさほど難しくはなさそうだ。

塞ノ神式土器は今や九州一円はおろか中国,四国地方からも発見され、広範な分布が分かっている。

南北九州の交流(塞ノ神式土器)2023/05/15

さて、東名遺跡の続きである。

東名縄文館で手に入れたパンフ(どれも非常によく出来ている)によると、東名遺跡から出土する土器のほとんどは塞ノ神(せのかん)B式土器と呼ばれる縄文時代早期の土器で、南九州に多く見られるという。

口が開いた平底のバケツのような形の土器である。
ハイガイなどで文様をつけているのが特徴。

有明海を介した南九州との交流が考えられるわけだが、一昨日(13日)に鹿児島市のふるさと考古歴史館を訪ねて、まさにその塞ノ神式土器に再会した。その話は次回。