玉にどうやって穴を開けたのか②2023/12/04

昨日で小郡市埋蔵文化財調査センターでの「小郡の古墳展」が終わりましたー。
その中の展示です。

小郡市の西島遺跡に「玉作りのムラ」があった。

うちから隣の基山町に行く時に必ず通る「西島」という信号があります。
あのあたりに遺跡があったんですね!
今度、歩いてみよう。看板くらいはあるかな。

11月4日付にも書きましたが、管玉や勾玉などの玉類、これにどうやって穴を開けたかがなかなか分からない。

この展示でも残念ながら、穴を開けた方法や道具などは説明されていない。

ただ一つ、目から鱗、がありました。

石を小片にして穴を開けてから、丸く磨いたということ。
なるほど。
完成品に穴を開けるとばかり思っていた。
ある程度の大きさがあったほうが穴を開けやすいよねー

日本人は可愛い鳥が大好き2023/12/04

これも「小郡の古墳展」から。
平安時代の千鳥を思わせる、可愛い鳥が8羽、鏡に描かれている。


津古生掛(つこしょうがけ)古墳(3世紀後半)の木棺に副葬されていた、方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)だ。


説明には、後漢晩期から三国(魏)時代に製作された可能性が高いとある。
また、ここには書いてないが、方格内の銘は「位至三公」だという。

この鏡が中国鏡だというのは、あくまで「可能性」である。
私見だが、中国人がこんな可愛い鳥を好んで描くだろうか。
私は国産鏡の可能性が十分あると思う。
実際、大野城市からも4羽の可愛い小鳥を描いた鏡が出ている。
大野城心のふるさと館で開催中の特別展「大鏡の世界」図録から転載させてもらう。


どうでしょうか?

さて、津古生掛古墳について、もう少し。
小郡市埋蔵文化財調査センターを講座等で訪ねたら、収蔵庫の一部が公開されているので是非のぞいてみてください。
いつか展示されたのであろう、こんな説明もありました。


こんな立派な前方後円墳が今は何も残っていません。
全長32mと大きくはないですが、3世紀後半ですよ。
なかなかあるもんじゃありません。
発掘調査の後、宅地造成で壊され、惜しいことをしました。

右のレプリカが、この古墳のシンボル「つこっこ」、鶏形土製品です。
墳丘のくびれ部付近から転落したものが三体、見つかりました。
本物もありますが、人気者で、貸し出されていることが多いそうです。

玉にどうやって穴を開けたのか③2023/12/05

今日から九州歴史資料館で始まった、西新町遺跡の調査成果展。

玉砥石(といし)って初めて見ました。
なるほど、これで研磨するわけね。

真ん中は原石から次第に勾玉へと進む様子。

またも玉にどうやって穴を開けたかは説明なし(笑)

豊田有恒さんの訃報が飛び込んできた2023/12/05

小郡市上岩田(神磐戸)の老松神社2023/12/06

小郡市には神功皇后・仲哀天皇ご夫妻ゆかりの地がいくつもある。

そのうち上岩田の老松神社をうっかりしていたので、昨日行ってみた。

由緒書きが非常に興味深い。

まず、上岩田の地名は元は「神磐戸」と称されていたこと。

神功皇后元年(321年)3月20日、神功皇后は現在の筑前町夜須(安)で羽白熊鷲を討つと、次に山門県の土蜘蛛、田油津媛(たぶらつひめ)を滅ぼすため、津古から舟に乗って得川(宝満川)を下り、いったんこの地に上陸した。
現在の地理ともばっちり符合する。

25日には田油津媛を討っているので、わずか数日のことであるが、皇后の行在所であったことから神磐戸と称されたのだろう。
天照大神(女神)に比される女帝(亡き仲哀天皇の摂政)であったのだ。

ここでは、武内宿禰に命じて剣を祀らせた。
おそらく羽白熊鷲を討った剣だったのではないか。

なお、ネット情報では老松神社には駐車場がないとのことで、離れたコンビニに停めて歩いていったが、上岩田公民館の横に停めれば大丈夫だ。

仲哀天皇の死の謎2023/12/06

小郡市大保(おおほ)にある御勢大霊石(みせたいれいせき)神社。
イオン小郡に行くとき必ず前を通る、なじみの神社だ。


ここはケタ外れに立派な由緒を持つ。


この案内板では、仲哀天皇は筑前の橿日宮(香椎宮)で崩御したのに、どうして神功皇后が三韓征伐時に亡き仲哀天皇の御形代とした石を筑後のこの地に祀ったのかがつながらない。
そのあたり、神社のパンフレット(賽銭箱の横の箱に入っている)が詳しいので、そちらで説明しよう。

仲哀天皇は熊襲征伐のため、橿日宮の本陣から軍を進めて大保まで来たところで、宝満川の清浄な地が気に入り、字(あざ)龍頭に仮陣地を置いた。
それについては境内の別の案内板にも記してある。


さて、天皇が近臣を従えて戦線を見回っていると、なんと敵の毒矢が当たって、天皇はあっけなく崩御してしまう。戦死である。
神功皇后は兵士たちの士気が下がるのを恐れて、天皇の死を隠して殯葬した。


熊襲を征伐した後、ご崩御を布告し、柩を橿日宮に移して喪に服した。

そのあと神功皇后は、石に仲哀天皇の鎧・兜を着せて軍船に乗せ、三韓征伐に向かった。
戦いに勝って凱旋すると、石を大保の殯葬の地に祀り、御勢大霊石として崇めたという。
御勢の勢(せ)とは夫(せ)のことだという。


以上が御勢大霊石神社の由緒である。
ところが、記紀では仲哀天皇の崩御のさまが全く違う。

まず日本書紀では、橿日宮(香椎宮)で神功皇后を通して神託があり、熊襲ではなく新羅国を討つようにとのことだった。
仲哀天皇は神託を信じず、熊襲を討った。ところが、勝てずに帰った。
そのあと天皇は急に病気になって、翌日には死んでしまう。
つまり、神のお告げに従わなかったので亡くなったということだ。
御勢大霊石神社の由緒の「戦死」とは丸きり異なる。

古事記ではまた違う。
香椎宮で神託を聴くのは同じだが、仲哀天皇が琴を弾いて、神功皇后に神が乗り移るのである。
神は「西方の国を私が帰服させよう」と言うのだが、ここでも天皇は耳を貸そうとしない。神は激怒する。
大臣の建内宿禰が慌てて「琴をお弾きください」と勧めるが、やがて琴の音がしなくなって既に天皇は死んでいたのである。
つまり、古事記では熊襲と戦う前に崩御しているのだ。戦死どころではない。

こうなると、権威ある記紀の記述のほうを信じたくなる。
神社の由緒といっても、伝承みたいなもんだろう…と。

しかし、である。
古事記のほうは、仲哀天皇の崩御後、神功皇后は神託通り新羅征討に行くので矛盾はない。
ところが、日本書紀では、新羅に向かわず、神の怒りを買ったはずの熊襲征伐に向かうのである。
すなわち鴨別(かものわけ)に命じて熊襲の国を討たせ、服従させた。
さらに、前回書いたように、神功皇后自ら、羽白熊鷲や田油津媛を討ち滅ぼす。

これは、夫の仲哀天皇を殺されたことに対する、復讐の掃討戦だったのではないか。
そう考えると、御勢大霊石神社の由緒が一番、筋が通っている。

さて、今年10月に大阪に2泊して、藤井寺市の仲哀天皇陵も見てきたので、紹介しておこう。






九州で不遇な死を遂げた仲哀天皇も、故郷にこんな立派な陵墓をつくってもらって、少しは救われたというべきか。

飛鳥では、やはり九州で亡くなった斉明天皇の陵も見てきたが、そのうち機会を見て紹介したい。

わが家の下に埴輪窯2023/12/07

看板も何も出ていないので分かりにくいが、どうやらわが家のあたりは三沢蓬ケ浦(みつさわふつがうら)遺跡らしい。

ここでは2000年に、九州では非常に珍しい埴輪窯(5世紀中ごろ)が見つかった。


出土物は少なく、すべて家形埴輪の屋根の破片だった。

中で注目されるのは片流れの家形埴輪(左)で、全国的にも類例が少なく、今城塚古墳(大阪府高槻市)など古墳時代を通じて首長墳に採用されることがほとんどだという。

ちょうど10月に今城塚古墳も訪ねており、展示館で片流れの家形埴輪の写真も撮っていた。


左側の埴輪がそれで、屋根が片斜面になっていることから、片流れ造りという。
埋葬前の遺体を安置する殯(もがり)屋など、葬送儀礼で使用する家ではないかと考えられているらしい。

今城塚古墳の埴輪があまりに立派で、三沢蓬ケ浦遺跡の破片だけで片流れの屋根であるとは、素人目にはちょっと判断つきかねるが、ここで焼かれた埴輪は東に400mほどの横隈山古墳に並べられたと考えられている。


ここは整備されており、墳丘に登れる。切り株だらけだが(笑)。