大谷の舞台はワールドシリーズへ2023/12/13

日本人は野球(ベースボール)を創造することはできなかったが、世界最高の選手は日本人から出た。

これはあらゆる世界に言えることで、ルールを作るのは欧米人。そのルールの中で最高のものをつくるのが日本人なのだ。


大谷翔平はエンゼルスに6年いて、ワールドシリーズに行けるチームじゃないって一番わかってるのに、残留はしないと信じていた。

とにかく残留じゃなくてよかった。

ホームラン後の兜パフォーマンスは、ドジャースでも続けてほしい。
日本人としての誇りを感じられてグッド。

荒涼たる九大箱崎キャンパス2023/12/13

九州大学の箱崎キャンパスに初めて行ってみた。

九大といえば、高校時代、先生から「受けろー、受けろー」とうるさく言われたものだが、それへの反発もあって、全く眼中になかった。
鶴丸高校としては、全国の高校相手には東大合格者数や国立大医学部合格者数が重要だったが、九州内や同じ鹿児島市内の高校に対しては九大合格者数でも負けてはならなかったのである。
なにしろ百人は送り込まないと勝てないのだ。

しかし、そんなのは先生や学校の勝手である。
生徒にとっては勝手に人生の進路を決められるという、全くもって迷惑な話だ。
進路指導なんてものはなかったに等しい。
とにかく勉強のできる者から順に、東大、国立大医学部を強制的に勧められ、そこに達しないグループには九大を受けさせる。そこにも届かない者は関心の外だ。

3年の時の担任の東憲治先生に、京都大学を受けると言っても許してもらえず、じゃあ一橋!いやダメってわけで、願書提出期限までなかなか決まらなかった。
とうとう私も訳が分からなくなって、やけのやんぱちで名古屋大学にすると言った。
名大も一流大学ではあるが、鶴丸から受ける者などいない。
どうしても九大がイヤだったのだ。それだけだった。

ところが、東先生もこんにゃろー勝手にしろと思ったのか、なんと許しが出た。

この先生には遺恨があった。
夏頃だったか、夜中、近くの同級生の家に4人ほど集まって、ウイスキーをかっくらった。
飲み方を知らないから、コップにそのまま注いで生(き)で一気飲みだ。
翌日、3人は何食わぬ顔で登校したが、1人が二日酔いで欠席した。
しかもあろうことか、そいつは一緒に飲んだメンバーをばらした。
私は階段の踊り場で東にビンタを食らった。

まあ、これは自分らが悪いから仕方がないが、もう一つは許せない。

帰りのバスで居眠りして、開いていた窓から帽子を落としてしまった。
慌てて次のバス停で降りて探したが、見つからなかった。
翌朝、帽子なしで登校すると、服装に目を光らせていた東はすぐ「帽子はどうした」と聞いた。
「なくしました」
「新しいのを買いなさい」
(え⁉)
もう3年生の3学期である。入試等もあって、学校に行くのはわずかだ。
それなのに新品を買えと言う。母にお金をもらうのも申し訳ない。
こういうとき私は悲しいかな、うまくアドリブで口ごたえができない。
結局、新しい帽子を買い、わずか数回だけ学校にかぶっていった。

帽子を落とした私は、名大も落ちた。
入試は見たこともない問題ばかりだった。
入試問題にここまで地域性があるとは想像もしていなかった。
だから鶴丸では九大の過去問ばかりやらされたのだ。
あるいは東京の大学を受ける者が多いので、そういう傾向と対策も。
だから早稲田の試験では、見たこともない問題が並ぶようなことはなかった。
東先生も私が痛い目に遭うことは分かっていただろう。

今でも思う。
希望は通らず、受けたくもない名大を受ける必要があったのか(しかも落ちた)。
先生にそんな権利があるのか。

東先生はその後、鶴丸の校長になった。まあ順当な出世かもしれないが、本人は教育長を狙っていたと私はにらんでいる…。

まあ、それやこれやの九大である。


目的は九州大学総合研究博物館である。
九大の本体は糸島に移転したと仄聞していたものの、跡地の箱崎キャンパスがこんなに荒涼としているとは驚いた。
旧工学部本館がぽつんと残されて博物館になっているのだ。
中に入ってみる。


ほかに見学者もなく、しんとした中にアンモナイトの化石から始まって、いろんな遺物が無造作に置いてある。
さすが、箱崎にあった110年の歴史が迫ってきて迫力がある。
夢野久作のドグラ・マグラの世界だ。
1、2、3階とたっぷりたんのうした。
もっとも人骨の部屋とかは恐ろしくてドアを開ける勇気はなかったが。

九大総合研究博物館は令和9(2027)年度にリニューアルオープンするそうだ。
このおびただしいお宝を死蔵させておく手はない。
私も微力ながら関わりたいと思っている。

あんなに逃げ回っていた九大と、50年近く後に縁ができそうだ。
それもまた人生だろう。