亀形石について2023/10/31

奈良の飛鳥で訪ねた、酒船石遺跡の亀形石槽。


飛鳥の謎の石造物の一つだが、その由来を探る上で、同じ飛鳥時代(7世紀)の中宮寺の天寿国繍帳に描かれた亀に酷似していると指摘される。
しかし、それより少し前の古墳時代(6~7世紀)からある意匠のようだ。
九州歴史資料館で現在開催中の「船原古墳とかがやく馬具の精華」に展示されている、金銅製亀形飾金具(長崎県壱岐市笹塚古墳出土)だ。


円形の甲羅、足の指も四本と共通している。
「スッポンを模したとみられ、馬の額に装着した装飾品と想定される」という。
なぜ馬の額にスッポンなのか?さらに追及の必要がありそうだ。

高松塚古墳は装飾古墳か2023/10/18

661年に筑紫の地で崩御した斉明天皇のルーツを訪ねて、今月9、10日、奈良県の飛鳥を歩いた。そのことについてはおいおい書くとして、今日は〝ついで〟に見た高松塚古墳について記したい。




実は、高松塚古墳の壁画は中国風なので全く興味がなかった。
飛鳥から帰福後、先日の15日に今度は念願の王塚古墳特別公開に行ったのだが、同日、遠賀川流域の古墳も同時に公開があり、有名なのにやはり中国風で敬遠していた宮若市の竹原古墳にも足を延ばした。


驚いたのは、絵が鮮明に見えたことである。もちろん撮影不可なので、建物の中にあった写真を掲載するが、ほとんどこのように見えた。こんなに鮮明に残っている装飾古墳は初めてである。


ガイドの方の口から「高松塚古墳」のことが出た。
モチーフの類似からやはり意識しているようである。
もちろん高松塚のほうがずっと有名で、壁画の見事さも知れ渡っているわけだが、ガイドが言うには、高松塚古墳は竹原古墳の100年以上も後であり、漆喰に絵の具で描いているから当然きれいで、対する竹原古墳は岩(大石)に直接描いているのだと。
言われてみればなるほどその通りである。
高松塚古墳は写真の解説版にもある通り、7世紀末から8世紀初め。竹原古墳は6世紀後半だから、百数十年も違う。高松塚は古墳時代も終焉した飛鳥時代なのだ。
もう一度、高松塚古墳の解説版に戻ってもらうと分かるように、高松塚古墳とキトラ古墳は「壁画古墳」と言って、装飾古墳とは区別されている。

鴻臚館の前身、筑紫館2023/06/12



この説明によると、白村江の戦の後まもなく、この地に「筑紫館(つくしのむろつみ)」が造られたという。
そうなると大宰府や水城、大野城・基い城と同じく、防衛施設の性格が強かったと考えられる。大宰府よりも最前線だからなおさらだ。

ところが、20年後の688年には、にっくき相手のはずの新羅の使者をもてなしたという。
日本書紀を確かめると、それ以前から筑紫でもてなしたという記事を散見する。
どうもこのあたりは勉強し直す必要がありそうだ。

筑紫館があった場所


原田大六の師、中山平次郎2023/06/12

昨日は青山繁晴議員の独立講演会で福岡市に出たので、その前に福岡城内の鴻臚館跡展示館に寄った。

すると思いがけず、原田大六が師事した中山平次郎の記述に遭遇した。

中山こそがそれまでの定説を覆して、鴻臚館は福岡城内にあったと唱えた人だったのだ。
そしてその通りに見つかった。

原田大六も凄いが、その師も凄かった。