鴻臚館の前身、筑紫館2023/06/12



この説明によると、白村江の戦の後まもなく、この地に「筑紫館(つくしのむろつみ)」が造られたという。
そうなると大宰府や水城、大野城・基い城と同じく、防衛施設の性格が強かったと考えられる。大宰府よりも最前線だからなおさらだ。

ところが、20年後の688年には、にっくき相手のはずの新羅の使者をもてなしたという。
日本書紀を確かめると、それ以前から筑紫でもてなしたという記事を散見する。
どうもこのあたりは勉強し直す必要がありそうだ。

筑紫館があった場所


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