仲哀天皇の死の謎2023/12/06

小郡市大保(おおほ)にある御勢大霊石(みせたいれいせき)神社。
イオン小郡に行くとき必ず前を通る、なじみの神社だ。


ここはケタ外れに立派な由緒を持つ。


この案内板では、仲哀天皇は筑前の橿日宮(香椎宮)で崩御したのに、どうして神功皇后が三韓征伐時に亡き仲哀天皇の御形代とした石を筑後のこの地に祀ったのかがつながらない。
そのあたり、神社のパンフレット(賽銭箱の横の箱に入っている)が詳しいので、そちらで説明しよう。

仲哀天皇は熊襲征伐のため、橿日宮の本陣から軍を進めて大保まで来たところで、宝満川の清浄な地が気に入り、字(あざ)龍頭に仮陣地を置いた。
それについては境内の別の案内板にも記してある。


さて、天皇が近臣を従えて戦線を見回っていると、なんと敵の毒矢が当たって、天皇はあっけなく崩御してしまう。戦死である。
神功皇后は兵士たちの士気が下がるのを恐れて、天皇の死を隠して殯葬した。


熊襲を征伐した後、ご崩御を布告し、柩を橿日宮に移して喪に服した。

そのあと神功皇后は、石に仲哀天皇の鎧・兜を着せて軍船に乗せ、三韓征伐に向かった。
戦いに勝って凱旋すると、石を大保の殯葬の地に祀り、御勢大霊石として崇めたという。
御勢の勢(せ)とは夫(せ)のことだという。


以上が御勢大霊石神社の由緒である。
ところが、記紀では仲哀天皇の崩御のさまが全く違う。

まず日本書紀では、橿日宮(香椎宮)で神功皇后を通して神託があり、熊襲ではなく新羅国を討つようにとのことだった。
仲哀天皇は神託を信じず、熊襲を討った。ところが、勝てずに帰った。
そのあと天皇は急に病気になって、翌日には死んでしまう。
つまり、神のお告げに従わなかったので亡くなったということだ。
御勢大霊石神社の由緒の「戦死」とは丸きり異なる。

古事記ではまた違う。
香椎宮で神託を聴くのは同じだが、仲哀天皇が琴を弾いて、神功皇后に神が乗り移るのである。
神は「西方の国を私が帰服させよう」と言うのだが、ここでも天皇は耳を貸そうとしない。神は激怒する。
大臣の建内宿禰が慌てて「琴をお弾きください」と勧めるが、やがて琴の音がしなくなって既に天皇は死んでいたのである。
つまり、古事記では熊襲と戦う前に崩御しているのだ。戦死どころではない。

こうなると、権威ある記紀の記述のほうを信じたくなる。
神社の由緒といっても、伝承みたいなもんだろう…と。

しかし、である。
古事記のほうは、仲哀天皇の崩御後、神功皇后は神託通り新羅征討に行くので矛盾はない。
ところが、日本書紀では、新羅に向かわず、神の怒りを買ったはずの熊襲征伐に向かうのである。
すなわち鴨別(かものわけ)に命じて熊襲の国を討たせ、服従させた。
さらに、前回書いたように、神功皇后自ら、羽白熊鷲や田油津媛を討ち滅ぼす。

これは、夫の仲哀天皇を殺されたことに対する、復讐の掃討戦だったのではないか。
そう考えると、御勢大霊石神社の由緒が一番、筋が通っている。

さて、今年10月に大阪に2泊して、藤井寺市の仲哀天皇陵も見てきたので、紹介しておこう。






九州で不遇な死を遂げた仲哀天皇も、故郷にこんな立派な陵墓をつくってもらって、少しは救われたというべきか。

飛鳥では、やはり九州で亡くなった斉明天皇の陵も見てきたが、そのうち機会を見て紹介したい。

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