玉にどうやって穴を開けたのか2023/12/15

九州歴史資料館で展示中の福岡市の西新町遺跡(4世紀)のギャラリートークでは、同遺跡から朝鮮へは「玉」を輸出し、朝鮮からは鉄の原料を輸入していたという興味深いことを聞いた。

だが、私のアノ質問にはまたしても回答が得られなかった。

仲哀天皇の死の謎2023/12/06

小郡市大保(おおほ)にある御勢大霊石(みせたいれいせき)神社。
イオン小郡に行くとき必ず前を通る、なじみの神社だ。


ここはケタ外れに立派な由緒を持つ。


この案内板では、仲哀天皇は筑前の橿日宮(香椎宮)で崩御したのに、どうして神功皇后が三韓征伐時に亡き仲哀天皇の御形代とした石を筑後のこの地に祀ったのかがつながらない。
そのあたり、神社のパンフレット(賽銭箱の横の箱に入っている)が詳しいので、そちらで説明しよう。

仲哀天皇は熊襲征伐のため、橿日宮の本陣から軍を進めて大保まで来たところで、宝満川の清浄な地が気に入り、字(あざ)龍頭に仮陣地を置いた。
それについては境内の別の案内板にも記してある。


さて、天皇が近臣を従えて戦線を見回っていると、なんと敵の毒矢が当たって、天皇はあっけなく崩御してしまう。戦死である。
神功皇后は兵士たちの士気が下がるのを恐れて、天皇の死を隠して殯葬した。


熊襲を征伐した後、ご崩御を布告し、柩を橿日宮に移して喪に服した。

そのあと神功皇后は、石に仲哀天皇の鎧・兜を着せて軍船に乗せ、三韓征伐に向かった。
戦いに勝って凱旋すると、石を大保の殯葬の地に祀り、御勢大霊石として崇めたという。
御勢の勢(せ)とは夫(せ)のことだという。


以上が御勢大霊石神社の由緒である。
ところが、記紀では仲哀天皇の崩御のさまが全く違う。

まず日本書紀では、橿日宮(香椎宮)で神功皇后を通して神託があり、熊襲ではなく新羅国を討つようにとのことだった。
仲哀天皇は神託を信じず、熊襲を討った。ところが、勝てずに帰った。
そのあと天皇は急に病気になって、翌日には死んでしまう。
つまり、神のお告げに従わなかったので亡くなったということだ。
御勢大霊石神社の由緒の「戦死」とは丸きり異なる。

古事記ではまた違う。
香椎宮で神託を聴くのは同じだが、仲哀天皇が琴を弾いて、神功皇后に神が乗り移るのである。
神は「西方の国を私が帰服させよう」と言うのだが、ここでも天皇は耳を貸そうとしない。神は激怒する。
大臣の建内宿禰が慌てて「琴をお弾きください」と勧めるが、やがて琴の音がしなくなって既に天皇は死んでいたのである。
つまり、古事記では熊襲と戦う前に崩御しているのだ。戦死どころではない。

こうなると、権威ある記紀の記述のほうを信じたくなる。
神社の由緒といっても、伝承みたいなもんだろう…と。

しかし、である。
古事記のほうは、仲哀天皇の崩御後、神功皇后は神託通り新羅征討に行くので矛盾はない。
ところが、日本書紀では、新羅に向かわず、神の怒りを買ったはずの熊襲征伐に向かうのである。
すなわち鴨別(かものわけ)に命じて熊襲の国を討たせ、服従させた。
さらに、前回書いたように、神功皇后自ら、羽白熊鷲や田油津媛を討ち滅ぼす。

これは、夫の仲哀天皇を殺されたことに対する、復讐の掃討戦だったのではないか。
そう考えると、御勢大霊石神社の由緒が一番、筋が通っている。

さて、今年10月に大阪に2泊して、藤井寺市の仲哀天皇陵も見てきたので、紹介しておこう。






九州で不遇な死を遂げた仲哀天皇も、故郷にこんな立派な陵墓をつくってもらって、少しは救われたというべきか。

飛鳥では、やはり九州で亡くなった斉明天皇の陵も見てきたが、そのうち機会を見て紹介したい。

管玉にどうやって穴を開けたのか2023/11/04

今日は研修で熊本城に行った。

昼食休憩時に一人熊本博物館へ。このような展示があった。

以前から管玉(勾玉も)に古代の人々はどうやって穴を開けたのかが分からない。

「管玉の穿孔技法」とあるので大いに期待を持って見た。

孔(穴)の形には円柱形と円錐形があって、これは穿孔に使用する工具が違うことを示している、とある。

ところが、肝心のその工具がどのようなものだったか、については何も示されていないのだ。謎のままだ。

リアル羽白熊鷲2023/06/04


今年2月1日付で2回にわたって「羽白熊鷲」について書いた。
その名の通り、翼があって高く飛ぶことができたという。
鳥人か鳥装した司祭か、はたまた天狗の元祖かと考察してきた。

まさに打ってつけのビジュアルを見つけた。
東博の古代メキシコ展で近く展示される、鷲の戦士像である。
どちらも鷲であるところが興味深いが、時代はかなり違う。
鷲の戦士像はアステカ文明の1469~86年。
羽白熊鷲は神功皇后の時代、4世紀である。1100年違う。

古代メキシコ展は10月、九博にも巡回する。
170cmもあるという、鷲の戦士像に会えるのが楽しみだ。

ところで、羽白熊鷲が神功皇后に討たれた「層増岐野(そそきの)」という所は、語感からして今の筑紫野(つくしの)だと考えている。
というのも、熊鷲を討って皇后は「心安らかになった」として、そこを安(夜須)と名づけたからだ。
夜須は現在、筑前町だが、筑紫野市との境にある。

そうすると、羽白熊鷲が「命尽くしの神」として筑紫神社に祀られたというのが地理的にも自然である。

直弧文について(番外編)2023/05/16

これって、直弧文じゃないですか。

しかも1939年に1400年前って、1939-1400=539、6世紀!
日本の古墳時代とぴったり合うじゃないか!

原寮さん死去2023/05/10

原寮さんの作品はすべて新刊で読んだ。

直木賞を受賞した『私が殺した少女』(1989年)を2014年、ちょうど四半世紀ぶりに再読したときの感想が残っている。

やや、ネタバレかもしれない。

「四半世紀ぶりに読んだが、面白かった。(私は本を読むと眠くなるのだが)一度も眠くならなかった。こんな意外な結末だったとはね。まあ、これだけ長い紙数追ってきた誘拐殺人事件が最後の最後に茶番というか、消失してしまうとは。作家とは何と根気のいる作業だろう」

私は2008年夏に福岡県小郡市に越して来て、隣の佐賀県鳥栖市に住む原寮さんに会いたいと思って、お兄さんがやっているジャズ喫茶「コルトレーン、コルトレーン」には何度か行った(時々原さんも顔を見せるという話だったので)。

原さんは講演をしない人だったが、一度だけ、福岡市中央区の赤煉瓦の文学館で話をするということで勇んで申し込んだ。
ところが当日、当時書いていた小説のアイデアが浮かんで、そっちをどうしても書かなければと思って、原さんの方は断念した。

というわけで、一度もお会いできなかったのは残念である。

象嵌鉄刀の穴の謎が解けた2023/03/04

2/25付「可愛い魚の象嵌」の続きである。

なぜ関(まち)に目釘穴が開いているのか。

これは「鎺本孔」(はばきもとあな)というそうだ。

またまた難しい専門用語が出てきた。

再び「刀剣ワールド」によると、「鎺」(はばき)とは、刀身と鞘(さや)を固定するほか、鞘に収めた刀身が鞘と直に触れるのを防ぐ役割があるという。
https://www.touken-world.jp/search-habaki/

この、伝群馬県藤岡市西平井出土の象嵌鉄刀は「象嵌鉄刀附鞘」(ぞうがんてっとうつけたりさや)といって、鞘も一緒に出土している(2/25写真の下部)。

言われてみれば、刀身をそのまま鞘に差しても安定しないだろう。
なるほど~ 気づかないものだ。

さらにこの象嵌についてだが、九博の小嶋篤研究員の論文によると、打ち込み鏨(たがね)でまず点線を刻み、次に円弧状の鏨で線を滑らかに整形する。そこに溶けた銀を流し込んで象嵌したと考えられる。鋼素材(刀身)へ鋼工具(鏨)で溝を掘る技術は、21世紀に至っても最難関の技術だという。

また、魚と鳥の象嵌文様は「鵜飼漁」を描いたもので、大型古墳の埴輪にもよく見られるという。
したがって、現実の鵜飼の場面というより、王権儀礼としての意味を持つらしい。

『埴輪』(角川ソフィア文庫)に群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳の例が記されている。同じ群馬県であるのが興味深い。

「八幡塚古墳の3場面の狩猟埴輪の群像は、猪狩り(地上)・鷹狩り(空中)・鵜飼(水面下)のように、王の治める世界観の広がりと連動しています」

「鷹狩りや鵜飼もたんなる獲物を得る手段ではなく、王権を象徴するものとして埴輪に造形されました。
『記紀』には、初代天皇に位置づけられる神武天皇が東征して大和の地に入った際、『鵜飼の伴(とも)』に助力を乞う歌を詠っています。ほかにも、天津神に出雲の国津神が国を護る『国譲り神話』(古事記)にも鵜が登場するなど、鵜は王権の成立に重要な役割を果たしています」

以前、日田で鵜飼を見たときにはそんなことは想像もしなかった…。

写真は宝塚1号墳(三重県松阪市)の船形埴輪(模造)である(現在、九博の加耶展で展示中)。
船上の左側に突き立っているのが「倭装大刀」である(その右に大小の儀仗と翳=きぬがさ)。