本当に竪穴式住居に住み続けたのか2023/02/01

写真は西暦700年頃に建てられた竪穴式住居を復元したものだ(指宿市の橋牟礼川遺跡)。
縄文時代ではない。
古墳時代の末である。

日本人は縄文、弥生、古墳と時代が変わっても、こんな掘っ立て小屋みたいな粗末な家に住み続けたことになっている。

本当だろうか。

古墳時代にはあんな立派な石室を造っている。

家形埴輪には立派な家が数多くみられる。

羽白熊鷲の正体2023/02/01

記紀の世界では、まつろわぬ(時の権力に服しない)者たちは熊襲・隼人とか土蜘蛛と呼ばれる。

ところが、羽白熊鷲は熊襲でも土蜘蛛でもない。
(隼人は南九州かつ律令制の時代だからそもそも該当しない)

というのも、神功皇后は羽白熊鷲殺害の直前に、熊襲を討っている。
「吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を遣わして熊襲の国を討たされた。いくらも経たぬのに自然と服従した」
したがって羽白熊鷲は熊襲ではない。

また、羽白熊鷲を3月20日に殺すと、直後の25日に山門県に転じて土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を殺した。
したがって羽白熊鷲は土蜘蛛でもない。

では一体、何者か。

熊襲や土蜘蛛という集団に属さない、鬼あるいは後世の天狗に比すべき一匹狼と考えるしかない。
配下がいたとしても少数だろう。

それでも鬼や天狗のような非常に厄介な存在であり、神功皇后としても看過できないほどの悪業(人さらいが中心か)をやっていたのだろう。

もとより天狗とは山伏姿でおなじみだから、仏教伝来前の4世紀前半には当てはまらない。
とはいえ天狗も必ずしも仏教の帰依者ではなかったようだ。

柳田国男は『山の人生』にこう書く。
「なるほど天狗という名だけは最初仏者などから教わったろうが奇怪(きっかい)はずっと以前から引続いてあったわけで、学者に言わせるとそんなはずはないという不思議が、どしどしと現れる。見本で物を買うような理窟には行かなかったのである。(略)そうして必ずしも兜巾篠懸(ときんすずかけ)の山伏姿でなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍・寺百姓以上ではなかった。いわんや自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵もなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨(みだ)りに俗衆の近づくのを憎み、ことに隠形自在にして恩讐ともに常人の意表に出でた故に、畏れ崇められていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった」

そうなると、筑紫の語源となった「人の命尽くしの神」を思い出す(昨年5/11付参照)。

筑後国風土記による筑紫神社の由緒(写真)を見てほしい。

「筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を往きかう人を多く取り殺していた」というのは、場所も行状も羽白熊鷲にぴったり当てはまる。

私としては、羽白熊鷲が筑紫の神となって祀られたと考えたいところだが、どうだろうか?

羽白熊鷲が殺された層増岐野(そそきの)という場所がどこなのか、残念ながら分かっていない。

しかしこれほどの人物が祀られた神社が朝倉周辺にはないようなのだ。

筑紫神社は筑紫野市の南端なので、朝倉とそうは離れていない。
由緒には筑紫の神が誰なのか分かっていないとある。
私は羽白熊鷲説を唱えたいと思う。

羽白熊鷲は天狗か2023/02/01

話は前後するが、神功皇后は夫の仲哀天皇が橿日宮(福岡市)で崩御した後、新羅征伐の前にまず荷持田村(のとりたのふれ、現朝倉市秋月野鳥)にいた羽白熊鷲(はじろくまわし)を討つ。

羽白熊鷲については11/22、12/13、1/19で鳥人か鳥装した司祭かと考察してきた。

この羽白熊鷲の塚が朝倉市矢野竹の「あまぎ水の文化村」内にあるというので昨日行ってみた。
家から近いのだが、延び延びになっていた。

ところが、家から近いとはいえ、なかなかの山の中である。
寺内ダムというダムまである。

山中を車で上がるうちに、なるほどここならクマワシもいそうだわいと思った。

さらに、羽白熊鷲は天狗の元祖のような人物ではなかったかという気がしてきた。
日本人には飛翔する者に対する畏怖がある。
羽白熊鷲は「その人となりは強健で、翼がありよく高く飛ぶことができる」(宇治谷孟訳『日本書紀』)。
やはりある程度の飛翔能力はあったのではないか。

あまぎ水の文化村はかなりの広さを誇る施設のようだが、誰一人客がいない。
しかし幸い、それほどさ迷うことなく、目指す塚は中心施設「せせらぎ館」の前にあった。

もちろん当時できた塚ではない。
案内板にあるように郷土の人物を顕彰するために平成14年に造られたものだ。

しかし、羽白熊鷲は神功皇后に殺される。
それは「皇命に従わず常に人民を掠めている」からだ。

「人を掠めている」とは、人さらいのことだろうか。

柳田国男は『山の人生』の中で天狗について数多く言及している。
その中で特に目を引いた一節――鷲が出てくる!――を紹介したい。

「例えば天狗さまがさらって行くということは、ことに児童少年については近世に入ってから、甚だ頻繁に風説せられるようになったけれども、中世以前には東大寺の良弁(ろうべん)僧正のように、鷲に取られたという話の方が遙かに多く、その中にもまた稀には命を助かって慈悲の手に育てられ、ついには親の家へ戻ってきた者さえあるように、『今昔物語』などには語り伝えている。それから引続いてまた世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思っていた時代もあったのである。」

甘木歴史資料館の小田和利氏によると、『筑前国続風土記拾遺』では羽白熊鷲は「鬼」と記されているという。

天狗―鷲―鬼がつながる。

湧水施設形埴輪2023/01/28


今度は「湧水施設形埴輪」が話題だ。

これは『埴輪』(角川ソフィア文庫)から転載させてもらった、「導水祭祀施設」の埴輪(宝塚1号墳、5世紀初頭)と呼び方が違うだけで同じものだろう。

さらに、その下の『サライ』2017年11月号から転載させてもらった、斉明天皇の石造物(7世紀)につながるものだろう。

これは松本清張が『火の路』で追及し、ゾロアスター教の祭壇と推定したものだが、そう難しく考えなくても4、5世紀から数多く造られていた物ということになる。

鳥人ふたたび2023/01/19

どうも鳥人の存在が気になる。

弥生中期、奈良県橿原市坪井遺跡出土の土器片。
(森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』巻頭カラーの一枚)

この大きな羽は何だ?

昨年11/22「鳥人は実在したのか」を書いた。
本当に古代日本に鳥人がいたら面白い。

しかし、12/13に書いたように「鳥装した司祭」なのだろう。

邪馬台国論争の決着2023/01/14

真野和夫『邪馬台国論争の終焉』を読んでみた。
森浩一さんが『倭人伝を読みなおす』の中で取り上げていたからだ。

タイトルで分かるように、真野さんの畢生の自信作だろう。

特に21の旁国の一つが津古にあった(写真の表)というのは私と同じで大いに意を強くした。

そうした参考になる点は多々あったものの、全体としては私の仮説を揺るがすには至らなかった。

やはり『倭人伝を読みなおす』が、新書版ながら汲めども尽きないヒントの宝庫だ。

まず重要なのは、倭人伝で邪馬台国は一回しか登場しないこと。
女王国は五回、女王は七回も使われている。

中国では則天武后(武則天)が史上唯一の女帝だ(在位690―705年)。
したがって日本の女王が非常に珍しかった。
だから女王国には和名の固有名詞があっただろうが、それでは呼ばずに「女王国」としたのである。

この女王国は三郡山地と背振山地に挟まれた「二日市地峡帯」にあったと私は考える。
現在の筑紫野市であり、写真の表にあるように弥生時代の巨大集落もある。

森さんの指摘でもう一つ重要なのは、投馬国と邪馬台国の記述への疑問である。

倭人伝では、不弥国までの具体的な記述の後に、「南に投馬国へ至る。水行二十日。五万余戸ばかり。その南、邪馬台国へ至る。女王の都で、水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり」とある。

森さんは「投馬国と邪馬台国の記述は、卑弥呼の死後、女王台与が晋へ遣使したときにもたらされた新しい情報を陳寿が倭人伝の編述にさいして挿入したと考える」。賛成だ。

これは私の仮説に見事に合致する。

二日市地峡帯にあった女王国が、南方の狗奴国との対立が深まるにつれ、戦争に備えるため女王・卑弥呼が筑後南部の邪馬国へ遷都し、邪馬大国へ国名を改めたのだ。
おそらく周辺地域を次々に編入していったのだろう。
七万余戸は大変な人口だ。
当時乳幼児の死亡率は高かっただろうが、それでも一戸当たり四人はいるだろう。
そうなると三十万人。立派な「大国」だ。

山門郡瀬高町なら、帯方郡から水行十日、陸行一月の距離もよくあてはまる。

残るは投馬国だ。
三潴(みづま)や上妻・下妻郡のあたりと考えれば、邪馬大国の北にあるという位置関係はクリアする。
しかし水行二十日が当てはまらない。

こう考えた。

卑弥呼は邪馬国へ南遷して邪馬大国を築く間、かつて女王国があった場所をほったらかしにしたわけではあるまい。
そこは北辺の守りとして変わらず重要なのだから。
それが投馬国だ。

そこなら帯方郡から船で海を渡り、博多湾から御笠川を上ればいい。
そう、水行だけで行けるのだ。
日数も二十日がよく当てはまる。
五万余戸、人口二十万人もこの場所なら納得がいく。

どうでしょうか。
これで邪馬台国問題は解決しました。

邪馬台国の場所はやはり福岡県山門郡2022/12/30

邪馬台国論争の沼にハマるつもりはない。

しかし、再三書いているように、21の旁国(その他の国)には大いに興味がある。

それは現在、自分が暮らしている筑後平野・佐賀平野の話だからだ。

ただ、旁国のことを考えていると、自然、女王国(邪馬台国)についても考えることになる。

魏志倭人伝には「女王国より北については戸数も道のりも分かるが、その他の旁国は遠くてよく分からない」と書いてある。

つまり、戸数や道のりがはっきり記してある対馬国、一支国(壱岐)、伊都国(糸島)、奴国(春日市)、不弥国(宇美町)は女王国より北にある。

ということは、女王国は今の大野城市や太宰府市のあたりになる。
豊田有恒の言う烏奴(うな、大野)国だ。

地形を見てもらうと分かるが、福岡平野は大野城市と太宰府市の境のところで両側から山地が迫ってすぼまっている。
この一番狭い地形を利用して、中大兄皇子(のちの天智天皇)が664年、日本防衛のための水城を築いたくらいだ。

であるからこそ、女王国の南の方は山にさえぎられて、よく分からないというわけだ。

また、投馬国と邪馬台国の記述については、著者・陳寿が後で追加した文章だろうというのが森浩一説である(『倭人伝を読みなおす』p.138)。
確かに不弥国(宇美町)まではさほど異論はないが、投馬国と邪馬台国の位置になると百家争鳴、収拾がつかなくなる。
しかし森説ならだいぶ矛盾は解消される。

そして狗奴国(くな、熊=熊襲の国)との対立の時代になって、女王は烏奴国から最前線に近い邪馬国に遷った。
好古都国(ここつ、菊池)を挟んで狗奴国と対峙したのである。
国名を邪馬国から邪馬大国(邪馬台国)に改めて女山(ぞやま、女王山)の麓(のちの山門郡瀬高町)に都を置いたに違いない。
山門(やまと)郡の名が残るのが何よりの証拠である。