馬の輸入は神功皇后のおかげ2023/02/12

神功皇后の新羅再征については2/1に書いた。
前後するが、今度は最初の出兵についてである。

その時なかなか兵が集まらなかったため、大三輪(おおみわ)の神社を建てた話は2/6に書いた。

日本書紀によると、風と波と魚のおかげで船は漕ぐ必要もなく新羅に着き、船が起こした波が新羅の中まで打ち寄せた。

新羅の王は戦慄し、軍船と旗と鼓笛の音が海に満ちているのを見て降伏した。

これを見て百済も日本に降伏した。

「故ここをもちて新羅国は御馬甘(みまかひ)と定め、百済国は渡の屯家(日本書紀では内官家屯倉=うちつみやけ)と定めたまひき」(古事記)

森浩一さんはこの記述について、「新羅には馬の供給先としての役割、百済には中国への渡航(交易も含め)のための施設(屯倉)を確保するうえでの役割の期待が語られているように思う」という(『記紀の考古学』)。

このときまで日本に馬はいなかった。
実際、神功皇后の治世後の5世紀頃から乗馬の風習を示す文物(埴輪や馬具など)が急に現われてくるのである。

写真は飯塚市の下ノ谷窯跡から出土した馬の埴輪(6世紀前半)である。