神功皇后と加耶2023/02/01

三韓(新羅、高句麗、百済)を平定したことで名高い神功皇后。
仲哀天皇が亡くなって摂政となる前のことだ。

実は神功摂政49年(西暦369年)にも再び新羅を攻めている。

兵を卓淳国に集結させて新羅を打ち破った。
そして比自㶱(ひしほ)、南加羅、啄国、安羅、多羅、卓淳、加羅の7カ国を平定した。
日本書紀に明記されている。

まさに現在、九州国立博物館でやっている「加耶展」の国々である。

同展は先日駆け足でざっと見たが、この神功皇后のことは何ら触れていなかったと思う。
また確認してみよう。

羽白熊鷲は天狗か2023/02/01

話は前後するが、神功皇后は夫の仲哀天皇が橿日宮(福岡市)で崩御した後、新羅征伐の前にまず荷持田村(のとりたのふれ、現朝倉市秋月野鳥)にいた羽白熊鷲(はじろくまわし)を討つ。

羽白熊鷲については11/22、12/13、1/19で鳥人か鳥装した司祭かと考察してきた。

この羽白熊鷲の塚が朝倉市矢野竹の「あまぎ水の文化村」内にあるというので昨日行ってみた。
家から近いのだが、延び延びになっていた。

ところが、家から近いとはいえ、なかなかの山の中である。
寺内ダムというダムまである。

山中を車で上がるうちに、なるほどここならクマワシもいそうだわいと思った。

さらに、羽白熊鷲は天狗の元祖のような人物ではなかったかという気がしてきた。
日本人には飛翔する者に対する畏怖がある。
羽白熊鷲は「その人となりは強健で、翼がありよく高く飛ぶことができる」(宇治谷孟訳『日本書紀』)。
やはりある程度の飛翔能力はあったのではないか。

あまぎ水の文化村はかなりの広さを誇る施設のようだが、誰一人客がいない。
しかし幸い、それほどさ迷うことなく、目指す塚は中心施設「せせらぎ館」の前にあった。

もちろん当時できた塚ではない。
案内板にあるように郷土の人物を顕彰するために平成14年に造られたものだ。

しかし、羽白熊鷲は神功皇后に殺される。
それは「皇命に従わず常に人民を掠めている」からだ。

「人を掠めている」とは、人さらいのことだろうか。

柳田国男は『山の人生』の中で天狗について数多く言及している。
その中で特に目を引いた一節――鷲が出てくる!――を紹介したい。

「例えば天狗さまがさらって行くということは、ことに児童少年については近世に入ってから、甚だ頻繁に風説せられるようになったけれども、中世以前には東大寺の良弁(ろうべん)僧正のように、鷲に取られたという話の方が遙かに多く、その中にもまた稀には命を助かって慈悲の手に育てられ、ついには親の家へ戻ってきた者さえあるように、『今昔物語』などには語り伝えている。それから引続いてまた世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思っていた時代もあったのである。」

甘木歴史資料館の小田和利氏によると、『筑前国続風土記拾遺』では羽白熊鷲は「鬼」と記されているという。

天狗―鷲―鬼がつながる。

羽白熊鷲の正体2023/02/01

記紀の世界では、まつろわぬ(時の権力に服しない)者たちは熊襲・隼人とか土蜘蛛と呼ばれる。

ところが、羽白熊鷲は熊襲でも土蜘蛛でもない。
(隼人は南九州かつ律令制の時代だからそもそも該当しない)

というのも、神功皇后は羽白熊鷲殺害の直前に、熊襲を討っている。
「吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を遣わして熊襲の国を討たされた。いくらも経たぬのに自然と服従した」
したがって羽白熊鷲は熊襲ではない。

また、羽白熊鷲を3月20日に殺すと、直後の25日に山門県に転じて土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を殺した。
したがって羽白熊鷲は土蜘蛛でもない。

では一体、何者か。

熊襲や土蜘蛛という集団に属さない、鬼あるいは後世の天狗に比すべき一匹狼と考えるしかない。
配下がいたとしても少数だろう。

それでも鬼や天狗のような非常に厄介な存在であり、神功皇后としても看過できないほどの悪業(人さらいが中心か)をやっていたのだろう。

もとより天狗とは山伏姿でおなじみだから、仏教伝来前の4世紀前半には当てはまらない。
とはいえ天狗も必ずしも仏教の帰依者ではなかったようだ。

柳田国男は『山の人生』にこう書く。
「なるほど天狗という名だけは最初仏者などから教わったろうが奇怪(きっかい)はずっと以前から引続いてあったわけで、学者に言わせるとそんなはずはないという不思議が、どしどしと現れる。見本で物を買うような理窟には行かなかったのである。(略)そうして必ずしも兜巾篠懸(ときんすずかけ)の山伏姿でなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍・寺百姓以上ではなかった。いわんや自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵もなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨(みだ)りに俗衆の近づくのを憎み、ことに隠形自在にして恩讐ともに常人の意表に出でた故に、畏れ崇められていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった」

そうなると、筑紫の語源となった「人の命尽くしの神」を思い出す(昨年5/11付参照)。

筑後国風土記による筑紫神社の由緒(写真)を見てほしい。

「筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を往きかう人を多く取り殺していた」というのは、場所も行状も羽白熊鷲にぴったり当てはまる。

私としては、羽白熊鷲が筑紫の神となって祀られたと考えたいところだが、どうだろうか?

羽白熊鷲が殺された層増岐野(そそきの)という場所がどこなのか、残念ながら分かっていない。

しかしこれほどの人物が祀られた神社が朝倉周辺にはないようなのだ。

筑紫神社は筑紫野市の南端なので、朝倉とそうは離れていない。
由緒には筑紫の神が誰なのか分かっていないとある。
私は羽白熊鷲説を唱えたいと思う。

仙道古墳で新発見2023/02/01

羽白熊鷲の塚を見た帰り、久しぶりに仙道古墳に立ち寄った。

二重の周溝があるのをお分かりだろうか。

周溝沿いにぐるっと回ったら、一部途切れているのに気づいた。

陸橋部というらしい。初めて知った。
説明にあるように、陸橋部わきの周溝内から盾持ち武人埴輪が出土したそうだ。
それに忠実に武人埴輪(レプリカ)が立ててあるわけなのだった。
(本物は12/25付写真の左側)

本当に竪穴式住居に住み続けたのか2023/02/01

写真は西暦700年頃に建てられた竪穴式住居を復元したものだ(指宿市の橋牟礼川遺跡)。
縄文時代ではない。
古墳時代の末である。

日本人は縄文、弥生、古墳と時代が変わっても、こんな掘っ立て小屋みたいな粗末な家に住み続けたことになっている。

本当だろうか。

古墳時代にはあんな立派な石室を造っている。

家形埴輪には立派な家が数多くみられる。