大宰府はいつできたか2023/03/01

カード集めの病が膏肓に入ってきたようだ。

太宰府市のマンホールカードをもらいに、大宰府政庁横の大宰府展示館へ。

西鉄二日市駅で降りて、まずは客館跡を歩く。

説明板に重要な記載があるのを発見。

「(15条路の)北側溝の底から、7世紀末の土器や瓦がまとまって出土しました。これはたいへん重要な発見で、街割りが7世紀末(飛鳥時代)にできたことを示す証拠です」

これがなぜ重要かというと、663年に白村江の戦いで百済が滅亡した後、唐は次に日本に攻めてくるに違いないと、中大兄皇子(のちの天智天皇)が急いで北部九州の防衛を固めた。

664年に水城、665年に大野城と基肄(きい)城を築いて、それまで那の津(博多)にあった役所を現在の大宰府の地に移した。

だからこの第一期大宰府ができたのは665年頃で、さほど立派な建物ではなかったとみられている。

ところが、7世紀末には街割りができていたというのだから、第一期大宰府もそれほど小さな町ではなかったということになる。


ちなみに、水城と基肄城については昨年5月にいろいろ書いているので、ぜひバックナンバーから見ていただきたい。

大野城についてはなぜか書いていないようなので次回に。

大野城見学のキモ2023/03/01

大野城に行ったのは昨年4月である。
なぜか記事にはしていなかったようだ。

今あらためて「焼米ヶ原」の地名の由来を調べてみたら、ここが宇美町だと知って驚いた。

つまり大野城跡は太宰府市、大野城市、宇美町の2市1町にまたがっているのだ。

これが大野城跡(四王寺山)の見物を難しいものにしている。

大野城に関するパンフ・資料は太宰府市が何種類も出しており、これを手にする人が多いと思う。
ところが、太宰府市の資料には焼米ヶ原駐車場が載っていないのだ。

私は以前訪ねて閉園日だった「四王寺県民の森」を再訪しようとして、途中たまたま見つけたのが焼米ヶ原駐車場だった。

四王寺山の道はどこも狭くくねくねとして、もちろん車を停める所などない。
ところが、この焼米ヶ原は十数台も停められるスペースがある。
ここに停めて歩いたら驚いた。

素晴らしい土塁はある。
絶景である。(次の記事の写真を見てください)

礎石がある。

ここには10棟の礎石建物跡があり、うち1棟の建物周辺から黒く炭化した米がたくさん採集されたことから「焼米ヶ原」の名がついたそうだ。

さらに太宰府口城門跡や水ノ手口石垣もすぐ近くにある。

つまりここで大野城のエッセンスはすべて見られると言っても過言ではない。
それを案内しないなんて、行政の縄張り意識には困ったものである。

大野城見学のキモ②2023/03/01

大野城からの眺めと土塁である。
行ったのは昨年4月15日。

眼下の景色の真ん中に、九州国立博物館の屋根が見える。

象嵌鉄刀の穴の謎が解けた2023/03/04

2/25付「可愛い魚の象嵌」の続きである。

なぜ関(まち)に目釘穴が開いているのか。

これは「鎺本孔」(はばきもとあな)というそうだ。

またまた難しい専門用語が出てきた。

再び「刀剣ワールド」によると、「鎺」(はばき)とは、刀身と鞘(さや)を固定するほか、鞘に収めた刀身が鞘と直に触れるのを防ぐ役割があるという。
https://www.touken-world.jp/search-habaki/

この、伝群馬県藤岡市西平井出土の象嵌鉄刀は「象嵌鉄刀附鞘」(ぞうがんてっとうつけたりさや)といって、鞘も一緒に出土している(2/25写真の下部)。

言われてみれば、刀身をそのまま鞘に差しても安定しないだろう。
なるほど~ 気づかないものだ。

さらにこの象嵌についてだが、九博の小嶋篤研究員の論文によると、打ち込み鏨(たがね)でまず点線を刻み、次に円弧状の鏨で線を滑らかに整形する。そこに溶けた銀を流し込んで象嵌したと考えられる。鋼素材(刀身)へ鋼工具(鏨)で溝を掘る技術は、21世紀に至っても最難関の技術だという。

また、魚と鳥の象嵌文様は「鵜飼漁」を描いたもので、大型古墳の埴輪にもよく見られるという。
したがって、現実の鵜飼の場面というより、王権儀礼としての意味を持つらしい。

『埴輪』(角川ソフィア文庫)に群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳の例が記されている。同じ群馬県であるのが興味深い。

「八幡塚古墳の3場面の狩猟埴輪の群像は、猪狩り(地上)・鷹狩り(空中)・鵜飼(水面下)のように、王の治める世界観の広がりと連動しています」

「鷹狩りや鵜飼もたんなる獲物を得る手段ではなく、王権を象徴するものとして埴輪に造形されました。
『記紀』には、初代天皇に位置づけられる神武天皇が東征して大和の地に入った際、『鵜飼の伴(とも)』に助力を乞う歌を詠っています。ほかにも、天津神に出雲の国津神が国を護る『国譲り神話』(古事記)にも鵜が登場するなど、鵜は王権の成立に重要な役割を果たしています」

以前、日田で鵜飼を見たときにはそんなことは想像もしなかった…。

写真は宝塚1号墳(三重県松阪市)の船形埴輪(模造)である(現在、九博の加耶展で展示中)。
船上の左側に突き立っているのが「倭装大刀」である(その右に大小の儀仗と翳=きぬがさ)。

うきは市の西ノ城古墳⑤2023/03/04

うきは市の西ノ城古墳を考える上で、同じ双方中円形をしている岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡弥生墳丘墓は重要だが、こんな朗報が飛び込んできた。

市長の英断に拍手を送りたい。

早く整備された姿を見たいものだ。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓①2023/03/06

古墳とは何か。

墳丘をもった墓。

とすれば、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は、古墳としては日本最古となる。

こんな記述を読んで目から鱗が落ちた。

吉野ケ里といえば弥生時代、古墳といえばもちろん古墳時代、全く別物として考えていたが、言われてみれば確かにそうだ。

墳丘墓って何、というわけで吉野ヶ里遺跡を訪ねた。

吉野ヶ里遺跡というと、一般には復元された建物のイメージが強いだろう。
南内郭に20棟、北内郭に9棟、倉と市のエリアには31棟もの建物が復元されている。
それが吉野ヶ里遺跡を紹介する際の写真に使われるのだから、このイメージを持ってしまうのは仕方がない。

私も何度も来ているのだが、北墳丘墓についてはさっと表面的に眺めただけのように思う。

写真右の入り口から北墳丘墓内に入れる。
発掘されたときの遺構や甕棺を見学できるのだ。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓②2023/03/06

本来は展示施設内の遺構や甕棺をお見せするのが先だろうが、早速、墳丘墓とは何か、という本題に入りたい。

電灯の光が反射して見えにくいが、弥生の墳丘墓は実にいろいろな形があることが分かる。

この中では、一昨日書いた岡山県の楯築遺跡がひときわ大きく、吉野ヶ里はそれに次ぐ。

こうした試行錯誤の末に、前方後円墳に収斂されていくわけだ。
やはり大和王権の力は強力だ。

発見されたばかりのうきは市の西ノ城古墳も、研究が進めば弥生の墳丘墓ということに訂正されるかもしれない。

糸島の平原遺跡も、ひところは平原弥生古墳と呼ばれていたようだから。