神功皇后と加耶②2023/02/03

2/1付の続きである。

やはり九博の加耶展には、神功皇后の「じ」の字もなかった。

しかし、それはおかしいのである。写真を見てもらいたい。

金海市の大成洞古墳群は、金官加耶の王墓と言われている。
そこに筒形銅器と巴形銅器が副葬されていた。
いずれも倭(やまと)首長層の儀式用武器・武具である。
すなわち倭と金官加耶との間に政治同盟を表明する儀礼があったのだろうという(広瀬和雄『前方後円墳の世界』2010年)。

少々古い本だが『幻の加耶と古代日本』(文春文庫ビジュアル版、1994年)でも、申敬澈(シンギョンチョル)という韓国の考古学者が鼎談で、大成洞古墳群の巴形銅器、碧玉製石鏃、碧玉製紡錘車形石製品を「倭系遺物」とし、「政治・軍事同盟のしるしであったと考えることも可能です」と語っている。

これらがまさに、神功摂政49年、神功皇后が比自㶱(ひしほ)、南加羅、啄国、安羅、多羅、卓淳、加羅の7カ国を平定したと日本書紀に書かれていることを証明する品々だと言えよう。

日本の考古学者は韓国に気を使って言えないだろうが、軍事同盟というより、神功皇后が加耶を従えた証しだと思う。

堤当正寺古墳①2023/02/03

加耶展を見ていたら、つい先日、訪ねた古墳が出てきた。

例の羽白熊鷲の塚を見たあと捜した、堤当正寺(つつみとうしょうじ)古墳だ。

古墳は捜しても半分は見つからないが、ここも住宅街なので苦労した。
でも見ておいてよかった。

このときは説明を読んで、前方部と後円部それぞれに石室が見つかったとあるので、へぇー、そんなことあるー?と思ったが、さらに重要な意味を持つ古墳だったのだ…。

堤当正寺古墳②2023/02/03

説明には「堤当正寺古墳の豪族は渡来人を登用して、土木・窯業・紡績などの新技術により地域開発を進めた」とある。

なぜ、こんな場所に(失礼)?

ここが羽白熊鷲の本拠であったのを思い出してほしい。

神功皇后は羽白熊鷲討伐で荒廃した地域を気に留めていたのだ。

だから加耶を平定した後、加耶の人々を朝倉に入植させ、技術による地域復興を図ったのだ。

朝倉と加耶2023/02/03

同じ朝倉地域にある小田茶臼塚古墳。

堤当正寺古墳の被葬者の子ではないかという。

出土した甲冑(写真左)は、大加耶の王が用いた甲冑(右)にそっくりである。
朝倉と加耶の強いつながりを感じさせる。