邪馬台国論争の決着2023/01/14

真野和夫『邪馬台国論争の終焉』を読んでみた。
森浩一さんが『倭人伝を読みなおす』の中で取り上げていたからだ。

タイトルで分かるように、真野さんの畢生の自信作だろう。

特に21の旁国の一つが津古にあった(写真の表)というのは私と同じで大いに意を強くした。

そうした参考になる点は多々あったものの、全体としては私の仮説を揺るがすには至らなかった。

やはり『倭人伝を読みなおす』が、新書版ながら汲めども尽きないヒントの宝庫だ。

まず重要なのは、倭人伝で邪馬台国は一回しか登場しないこと。
女王国は五回、女王は七回も使われている。

中国では則天武后(武則天)が史上唯一の女帝だ(在位690―705年)。
したがって日本の女王が非常に珍しかった。
だから女王国には和名の固有名詞があっただろうが、それでは呼ばずに「女王国」としたのである。

この女王国は三郡山地と背振山地に挟まれた「二日市地峡帯」にあったと私は考える。
現在の筑紫野市であり、写真の表にあるように弥生時代の巨大集落もある。

森さんの指摘でもう一つ重要なのは、投馬国と邪馬台国の記述への疑問である。

倭人伝では、不弥国までの具体的な記述の後に、「南に投馬国へ至る。水行二十日。五万余戸ばかり。その南、邪馬台国へ至る。女王の都で、水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり」とある。

森さんは「投馬国と邪馬台国の記述は、卑弥呼の死後、女王台与が晋へ遣使したときにもたらされた新しい情報を陳寿が倭人伝の編述にさいして挿入したと考える」。賛成だ。

これは私の仮説に見事に合致する。

二日市地峡帯にあった女王国が、南方の狗奴国との対立が深まるにつれ、戦争に備えるため女王・卑弥呼が筑後南部の邪馬国へ遷都し、邪馬大国へ国名を改めたのだ。
おそらく周辺地域を次々に編入していったのだろう。
七万余戸は大変な人口だ。
当時乳幼児の死亡率は高かっただろうが、それでも一戸当たり四人はいるだろう。
そうなると三十万人。立派な「大国」だ。

山門郡瀬高町なら、帯方郡から水行十日、陸行一月の距離もよくあてはまる。

残るは投馬国だ。
三潴(みづま)や上妻・下妻郡のあたりと考えれば、邪馬大国の北にあるという位置関係はクリアする。
しかし水行二十日が当てはまらない。

こう考えた。

卑弥呼は邪馬国へ南遷して邪馬大国を築く間、かつて女王国があった場所をほったらかしにしたわけではあるまい。
そこは北辺の守りとして変わらず重要なのだから。
それが投馬国だ。

そこなら帯方郡から船で海を渡り、博多湾から御笠川を上ればいい。
そう、水行だけで行けるのだ。
日数も二十日がよく当てはまる。
五万余戸、人口二十万人もこの場所なら納得がいく。

どうでしょうか。
これで邪馬台国問題は解決しました。

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