戦の強かった日本 ― 2023/03/16
今の日本からは想像もできないが、日本は本来、戦争の強い国である。
負けた例があまりないため、自虐的な学者たちは白村江の戦いについて「大敗した」と鬼の首を取ったように強調する。
日本書紀を読めば分かるが、これはそんな単純な話ではない。
斉明天皇の6年(660年)、百済は唐・新羅の連合軍に攻められて国家滅亡の危機に瀕し、10月、日本に援軍を要請してきた。
今のウクライナがロシアに攻められているのとよく似ている。
斉明天皇は女性でこのとき68歳だが、すぐに救援を決断した。
12月に難波宮で軍備を整えると、翌661年正月6日、自ら軍を率いて筑紫に向かった。
船には二人の息子、中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)も同乗していた。
やはり年齢的にきつかったのか、途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。
しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。
皇太子である中大兄皇子は朝倉で12日間、喪に服した。
中大兄は長津宮(福岡市)に移ると、母斉明天皇の遺志を継ぎ、8月には百済救援軍を送る。
続いて9月には、30年間人質に取っていた百済の王子余豊璋(よほうしょう)に織冠を授け妻をめとらせた上で、軍兵5千人余に護らせて百済に送った。
10月7日、中大兄は斉明天皇の棺とともに帰途に就き、同月23日難波に帰還する。
11月には天皇の棺を飛鳥川原に運んで殯(もがり)をおこなった。
12月には半島のもう一つの国、高麗を唐軍が襲う。
662年正月と3月に日本は百済にいろんな物資を送っている。
同じ3月、唐・新羅に攻められた高麗が日本に救援を請うてくる。
日本が軍将を派遣して守らせた結果、唐も新羅も攻め切れなかった。
5月、大将軍阿曇比邏夫(あずみのひらふ)が170艘を率いて豊璋を送り届け、宣勅によって百済王の位を継承させた。
(前年9月に豊璋は送り届けたはずだが、日本の天皇のお墨付きが必要で再び日本に戻っていたようだ)
阿曇比邏夫は鬼室福信(首相にあたる人物)に詔勅を書いた金製の札を与え、爵と禄を与えた。
豊璋と鬼室福信は拝礼して勅(みことのり)を承り、人々は涙を流した。
日本はいったん百済再興を果たしたのである!
なぜか、これに触れる学者はいない。
その後も新羅との戦いは続いたので、663年3月、日本は2万7000人の兵を送った(第4次の派兵か)。
6月、新羅の2城を攻略するも、百済王の豊璋が鬼室福信(まさに腹心だが)を斬るという事件が起こる。
8月、さらに日本は1万人余を増派したらしい(第5次)。
唐の軍将は170隻を率いて白村江に配置した。
27、28の両日、日本軍と唐軍が交戦。唐の陣は堅く、左右から日本の船を挟み込んで攻撃した。船は向きを変えることもできなかった。溺死する者が多かった。
王の豊璋は高麗へ逃げ去った。百済は完全に滅亡した。
百済人は多数、日本に亡命した。
これも今のウクライナを想起させる。
中大兄は百済人たちに安住の地を与え、その一方で防衛体制を整備し、唐に負けない国家づくりに尽力する。
……というわけだ。
次の敗戦がご存じ、太平洋戦争ということになる。
日中戦争は敗戦したわけではなく、日本の降伏と同時に終わった。
太平洋戦争は日本一国で(独伊は何の役にも立っていない)米英蘭豪を相手に3年9カ月戦った。
あれだけ大きな作戦失敗を繰り返しながら、よく持ったものだと驚嘆する。
アメリカは国際法違反を平然とやった。
日本国中を大規模空襲して民間人を大量虐殺し、最後は原爆2発とソ連の中立条約違反の参戦で、日本は降伏を余儀なくされたのである。
戦国時代からそうだが、戦には負け方というものがある。
すぐに思い出すのは、関ヶ原の戦いにおける島津軍の退却だ。
負けが決まると敵中を突破して、家康の陣まで迫って退却したのだ。
その後の経緯はいろいろあろうが、結果的に武勇を示したことによって領地は安堵されたのである。
日本も敗れたりとはいえ、欧米列強を相手に一歩も引かなかった唯一の国として今も一目置かれる。先人には感謝しなければならない。
日本のアイデンティティである天皇制は〝安堵〟されたのである。
もちろん東京裁判をはじめ汚名を着せられ、米中韓露による日本弱体化の策謀に今なお苦しんでいるが、自らの命を犠牲にして戦ってくれた先人のために負けっぱなしは許されないのである。
負けた例があまりないため、自虐的な学者たちは白村江の戦いについて「大敗した」と鬼の首を取ったように強調する。
日本書紀を読めば分かるが、これはそんな単純な話ではない。
斉明天皇の6年(660年)、百済は唐・新羅の連合軍に攻められて国家滅亡の危機に瀕し、10月、日本に援軍を要請してきた。
今のウクライナがロシアに攻められているのとよく似ている。
斉明天皇は女性でこのとき68歳だが、すぐに救援を決断した。
12月に難波宮で軍備を整えると、翌661年正月6日、自ら軍を率いて筑紫に向かった。
船には二人の息子、中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)も同乗していた。
やはり年齢的にきつかったのか、途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。
しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。
皇太子である中大兄皇子は朝倉で12日間、喪に服した。
中大兄は長津宮(福岡市)に移ると、母斉明天皇の遺志を継ぎ、8月には百済救援軍を送る。
続いて9月には、30年間人質に取っていた百済の王子余豊璋(よほうしょう)に織冠を授け妻をめとらせた上で、軍兵5千人余に護らせて百済に送った。
10月7日、中大兄は斉明天皇の棺とともに帰途に就き、同月23日難波に帰還する。
11月には天皇の棺を飛鳥川原に運んで殯(もがり)をおこなった。
12月には半島のもう一つの国、高麗を唐軍が襲う。
662年正月と3月に日本は百済にいろんな物資を送っている。
同じ3月、唐・新羅に攻められた高麗が日本に救援を請うてくる。
日本が軍将を派遣して守らせた結果、唐も新羅も攻め切れなかった。
5月、大将軍阿曇比邏夫(あずみのひらふ)が170艘を率いて豊璋を送り届け、宣勅によって百済王の位を継承させた。
(前年9月に豊璋は送り届けたはずだが、日本の天皇のお墨付きが必要で再び日本に戻っていたようだ)
阿曇比邏夫は鬼室福信(首相にあたる人物)に詔勅を書いた金製の札を与え、爵と禄を与えた。
豊璋と鬼室福信は拝礼して勅(みことのり)を承り、人々は涙を流した。
日本はいったん百済再興を果たしたのである!
なぜか、これに触れる学者はいない。
その後も新羅との戦いは続いたので、663年3月、日本は2万7000人の兵を送った(第4次の派兵か)。
6月、新羅の2城を攻略するも、百済王の豊璋が鬼室福信(まさに腹心だが)を斬るという事件が起こる。
8月、さらに日本は1万人余を増派したらしい(第5次)。
唐の軍将は170隻を率いて白村江に配置した。
27、28の両日、日本軍と唐軍が交戦。唐の陣は堅く、左右から日本の船を挟み込んで攻撃した。船は向きを変えることもできなかった。溺死する者が多かった。
王の豊璋は高麗へ逃げ去った。百済は完全に滅亡した。
百済人は多数、日本に亡命した。
これも今のウクライナを想起させる。
中大兄は百済人たちに安住の地を与え、その一方で防衛体制を整備し、唐に負けない国家づくりに尽力する。
……というわけだ。
次の敗戦がご存じ、太平洋戦争ということになる。
日中戦争は敗戦したわけではなく、日本の降伏と同時に終わった。
太平洋戦争は日本一国で(独伊は何の役にも立っていない)米英蘭豪を相手に3年9カ月戦った。
あれだけ大きな作戦失敗を繰り返しながら、よく持ったものだと驚嘆する。
アメリカは国際法違反を平然とやった。
日本国中を大規模空襲して民間人を大量虐殺し、最後は原爆2発とソ連の中立条約違反の参戦で、日本は降伏を余儀なくされたのである。
戦国時代からそうだが、戦には負け方というものがある。
すぐに思い出すのは、関ヶ原の戦いにおける島津軍の退却だ。
負けが決まると敵中を突破して、家康の陣まで迫って退却したのだ。
その後の経緯はいろいろあろうが、結果的に武勇を示したことによって領地は安堵されたのである。
日本も敗れたりとはいえ、欧米列強を相手に一歩も引かなかった唯一の国として今も一目置かれる。先人には感謝しなければならない。
日本のアイデンティティである天皇制は〝安堵〟されたのである。
もちろん東京裁判をはじめ汚名を着せられ、米中韓露による日本弱体化の策謀に今なお苦しんでいるが、自らの命を犠牲にして戦ってくれた先人のために負けっぱなしは許されないのである。
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