三種の神器②2023/05/27

吉武高木遺跡の模型もあった。

ちゃんと測量している人も2人いるんだね。

副葬品の図を見てもらうと分かるように、たくさんの墓がある中で、鏡・剣・玉の3つがそろっているのはM3だけなんだ。

3000年の時を隔てて2023/05/27

写真左は言わずと知れた、隼人の盾(鹿児島県歴史資料センター黎明館展示物)。
奈良市の平城宮跡の井戸から出土した、在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾とされている。

この特徴的な文様が、縄文時代の石製品にも刻まれていたとは驚きだ(九州国立博物館4Fに展示中)。
3000年以上の時代差がある。

しかも秋田(蝦夷)と隼人が同じ文様を使っていたところに、深ーい意味がありそうだ。

さらに言えば、この逆S字文様は、最近私が探っている装飾古墳の蕨手文にも通じる。

蕨手文と盾は、装飾古墳の代表的なテーマだ。
装飾古墳が熊本・福岡に多いことを考えれば、なんらかの対隼人の意味を持たせていることが考えられる。

うーん、今後は直弧文より蕨手文の研究が必要だなぁ。

隼人の盾をシンボルマークにしている奈良文化財研究所のブログ (2014年11月20日付)で面白い記述を見つけた。

「九州に息づく伝統文様?」と題して、隼人の盾と装飾古墳とを結びつけているのだ。

「話は200年ほど遡ります。5~6世紀の福岡県や熊本県地方には、壁画を描いた装飾古墳が数多く造られました。その壁画の文様には、赤白黒の顔料で鮮やかに描かれたS字のような蕨手(わらびて)文や三角形文、そしてギザギザ文様など、隼人の盾と似た文様が数多く見られます。
 それら装飾古墳の場所と隼人が住んだ地域は少し異なり、時代も違いますが、同じ九州のよく似た文様を見ると、時代を越えた不思議な伝統が息づいているように私には見えるのですが…。」

そこで終わっているのだが、私はその先を考えたい。

隼人の歩み2023/05/27

指宿市のココはしむれの年表にあるように、隼人が日本書紀に初めて登場するのが682年だ。

となると、装飾古墳の時期とは100年ほどずれるので、両者を結びつけるのはかなり難しい。

もっとも、682年の段階では、貢ぎ物を持って服属しているので、服属していない前段階があったと思われる。

ヤマトタケルが熊襲を征伐したのが4世紀。
その後、南九州に敵のいなくなった隼人はしばらくのびのびと暮らしていただろう。

時には北上して、かつての熊襲の地を脅かしていたかもしれない。
その戦いが装飾古墳に描かれた可能性はある。

しかし、500年頃の筑紫には磐井という強力な国造(豪族)がいたので、北部九州を脅かすほどはなかっただろう。

磐井が滅ぼされたあとは、隼人になんらかの動きはあったかもしれないが、とりあえず682年には大和政権に従属の意を示す。

しかしながら律令国家への組み入れは頑強に拒否したことは年表の通りである。