原田大六が面白い2023/06/07

在野の考古学者、原田大六(1917-1985)が面白い。

福岡県糸島市を拠点に活躍。平原遺跡の発掘調査で有名なことは伊都国歴史博物館を訪ねて知ってはいたが、その時点ではあまり興味を持たなかった。

装飾古墳に関する良い文献を探すうちに、国会図書館デジタルコレクションで原田大六『磐井の叛乱』(1963)を知り、読んで驚いた。

五郎山古墳の壁画に描かれている家屋が筑紫神社だというのだ。

これをきっかけに、五郎山古墳の被葬者が分かった(4/30参照)。
この詳細はしかるべき形で発表したいと考えている。

古書で『新稿 磐井の叛乱』(1973)を購入して読んだが、やはりすごかった。私の興味あるところが全て網羅されている。

以来、嵌まってしまってデジコレでちょこちょこ読んでいるが、目から鱗のことが多い。例を挙げよう。

日本書紀や七支刀銘文、広開土王碑文によって明らかなように、日本は4世紀半ばから朝鮮半島南部(いわゆる任那=加耶)を勢力下に置き、百済や新羅を服属させている。

とにかく日本は戦の強い国だった。
百済や新羅が困ったときには軍隊を派遣してやって、そのお礼にいろんな文物を献上されるという関係だったのである。
日本の輸出品は軍事力、輸入品は技術工芸だったともいえる。

しかし、6世紀になると、朝鮮半島が乱れてくる。
562年には新羅が任那日本府を滅ぼす。

原田大六は「任那に山城を築いて防戦したということも無かったらしい。日本軍は攻撃法は知っていたが退却して防戦する方法を知らなかったのであろう」と指摘する(『考古学研究』(1959.12)掲載の「神籠石の諸問題」)。

日本本土にも防衛施設はなかった。
「古墳文化前期から中期まで、いや後期にさえも、神籠石が姿を見せる以前には、日本には大軍を迎え撃つに足る城塞らしきものは全く見受けない」

こうして6世紀末から九州各地に神籠石が築かれるが、今度は完全防備に徹してしまって攻撃には適さないものを造ってしまった。原田大六は「愚城」とこき下ろしている。

これで分かった。
日本は663年に白村江の戦いで負けてから慌てて、水城、大野城、基い城を築くのだが、そのとき国を失って日本に来ている百済人を遣わして築かせたと書記に書いてある。
日本には巨大古墳を造る土木技術が既にあったのに、百済人に教わる必要があったのかと疑っていたが、日本人は実戦向きの城を築いたことがなかったのだ。

このほか、原田大六『卑弥呼の墓』(1977)には、強烈な松本清張批判が書かれている。
私も松本清張の古代史本はよく読んでいるので、時間の無駄だったかと腹立たしい思いがする。古代史好きには注意を促したい。

国会図書館恐るべし2023/06/07

国立国会図書館オンラインの所蔵資料検索で、試しに「宮田俊行」と入れてみると、私がこれまで書いた単行本や文章8件が過不足なく出てきた。