鉄挺は鉄斧か② ― 2025/02/03
今城型相似墳について ― 2025/02/03
大野城心のふるさと館へ「発掘された日本列島2024」を観に行った。
内容は多岐にわたるが、まずは古墳から一つ。
群馬県藤岡市の七輿山古墳は、継体天皇の墓とされる今城塚古墳と〝相似墳〟であるという。
飾ってあった円筒埴輪は、地元の技法とは隔絶しており、今城塚など近畿の古墳と類似しているという。
小澤太郎(久留米市文化財保護課)の論文「岩戸山と今城塚」に、今城塚古墳の相似墳として挙げられている中には七輿山古墳はない。
①断夫山古墳(名古屋市熱田区の熱田神宮公園内)
②味美二子山古墳(愛知県春日井市二子町)
③西山塚古墳(奈良県天理市、最近宿ができた)
④五ヶ庄二子塚古墳(京都府宇治市五ケ庄大林)
といったところだ。
①②は継体天皇2番目の后の目子媛あるいはその父親の尾張連草香、③は最初の后の手白香皇女、④は継体の擁立に深く関与した人物がそれぞれ被葬者として考えられている。
では、七輿山古墳の被葬者はどういう人物か?
『時空旅人』昨年11月はにわ特集号に、ちょうどその記述を見つけた。
七輿山古墳のある藤岡地域は、日本書紀安閑天皇2年(535)に緑野屯倉が置かれた場所。
被葬者は上毛野君小熊との説があるという。
さて、継体天皇の敵となった筑紫君磐井の墓とされる福岡県八女市の岩戸山古墳が今城塚相似墳であるとの前掲論文で小澤は「岩戸山古墳が寿陵であると考えるならば、築造以前に倭王権側によって今城塚型の設計が『配布』され、その貢献度によって規模が決定されていたのかもしれない」という。
さらに、昨年11月末の古代史研究フォーラムのトークセッションでは「同月の古代出雲シンポジウムで、天理市の別所大塚古墳が岩戸山と極めて近しい相似形であり、物部麁鹿火の墓候補の筆頭だとの発表があった」といい、ここは今後追及していきたい点である。
内容は多岐にわたるが、まずは古墳から一つ。
群馬県藤岡市の七輿山古墳は、継体天皇の墓とされる今城塚古墳と〝相似墳〟であるという。
飾ってあった円筒埴輪は、地元の技法とは隔絶しており、今城塚など近畿の古墳と類似しているという。
小澤太郎(久留米市文化財保護課)の論文「岩戸山と今城塚」に、今城塚古墳の相似墳として挙げられている中には七輿山古墳はない。
①断夫山古墳(名古屋市熱田区の熱田神宮公園内)
②味美二子山古墳(愛知県春日井市二子町)
③西山塚古墳(奈良県天理市、最近宿ができた)
④五ヶ庄二子塚古墳(京都府宇治市五ケ庄大林)
といったところだ。
①②は継体天皇2番目の后の目子媛あるいはその父親の尾張連草香、③は最初の后の手白香皇女、④は継体の擁立に深く関与した人物がそれぞれ被葬者として考えられている。
では、七輿山古墳の被葬者はどういう人物か?
『時空旅人』昨年11月はにわ特集号に、ちょうどその記述を見つけた。
七輿山古墳のある藤岡地域は、日本書紀安閑天皇2年(535)に緑野屯倉が置かれた場所。
被葬者は上毛野君小熊との説があるという。
さて、継体天皇の敵となった筑紫君磐井の墓とされる福岡県八女市の岩戸山古墳が今城塚相似墳であるとの前掲論文で小澤は「岩戸山古墳が寿陵であると考えるならば、築造以前に倭王権側によって今城塚型の設計が『配布』され、その貢献度によって規模が決定されていたのかもしれない」という。
さらに、昨年11月末の古代史研究フォーラムのトークセッションでは「同月の古代出雲シンポジウムで、天理市の別所大塚古墳が岩戸山と極めて近しい相似形であり、物部麁鹿火の墓候補の筆頭だとの発表があった」といい、ここは今後追及していきたい点である。
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