自維連立合意と吉田松陰2025/10/22

日本維新の会の藤田共同代表は、高市自民党総裁との連立合意の最終段階で、吉田松陰の言葉「狂愚誠に愛すべし、才良誠に恐るべし。諸君、狂いたまえ」を踏まえて、「高市さん狂って下さい。これからあらゆる抵抗があります。それを押し切って日本の大改革のためにはある種の狂気が必要です。そのために私たちは国民に覚悟を示すんです」と迫ったという。
高市総裁は「わかった! やるかっ!」と応じたそうだ。

維新の会の「維新」が、吉田松陰の精神を踏まえているのだとは初めて知った。

長州藩士の吉田松陰(1830ー1859年)は、嘉永六年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが来航すると、さっそく浦賀に行って偵察した。翌安政元年、ペリーが再びやってくると、松陰は下田に行って小舟で軍艦に乗りつけ、同乗つまり密航を頼むが断られる。その間に小舟は流されたため、松陰は米艦のボートに送られて、やむなく自首した。

松陰は下田の獄、江戸の獄、さらに萩の野山の獄へと移された。野山の獄では囚人仲間を相手に孟子の講義を始めた。囚人たちは喜んで、2カ月の講義が終わると、自分たちで輪講を始めた。その一節ごとに松陰が論評を加えて、それを集めたのが有名な『講孟箚記(さつき)』(のち『講孟余話』に改題)である。

『講孟余話』を読んで驚くのは、いきなり孔子・孟子の批判から始まることである。中公クラシックス『講孟余話ほか』の訳で見てみよう。

「経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあると、道は明らかにならぬし、学問をしても益なく、かえって有害である。たとえば、聖賢といわれる孔子や孟子のような方も、自分の生まれた国を離れて他国に行き仕官しようとされたが、これはなんとも納得のいかぬことである。(略)自分の主君は暗愚であるからといって自国を去り、他国に行って新しい主君に仕えようとするのは、ちょうど父親を頑固な愚か者だとして自分の家を飛び出し、隣家の年寄りを父親とするようなものである。孔子や孟子が、この君臣間の本義を誤られたことは、いかようにも弁解の余地のないところである」

湯武放伐についてはどうか。
「ここ(わが国)では、天つ神の血すじを継ぐ御方が、天地とともに永久に無限に統治するのであり、この大八洲(おおやしま)は、天つ神の開きたもうた国で、その御子孫が永く守りたもうものなのである。それゆえに、億兆の人民は、日嗣(ひつぎ)たる天皇と喜憂を同じくして、決して他のことに心をわずらわされてはならない。/ところが一方、征夷大将軍のごときは、天朝から命ぜられたもので、その職に適する者だけその地位にとどまることができる。それゆえ征夷大将軍が足利氏のように、その職をおろそかにした場合には、ただちにこれを廃してもよろしい。この点は、漢土の君主の場合ときわめて類似している。しかしながら湯・武のような人は義によって賊を討ち、これは天の命にもとづいたものだと称している。わが国においてはそうではない。わが国では、輝かしい天朝が天つ神の子孫として天下に君臨しておられるのに、天朝の命を承ることもなく、勝手に将軍の職務怠慢に対してその責任を追及しようとするならば、これはいわゆる『燕を以て燕を伐つ』(注・無道をもって無道を伐つ)ものであり、またいわゆる『春秋に義戦なき』(注・『春秋』には義にかなった戦いは載っていない)ものということになってしまう」(注は『講孟箚記』講談社学術文庫を参考にした)

松陰は安政2年(1855)12月、野山の獄を出され、生家(せいか)杉家に禁錮謹慎となった。松陰の叔父がやっていた松下村塾は次第に松陰が中心となっていく。
同5年、諸外国との通商条約が結ばれると、井伊大老の命で老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)が上京し、反対派を検挙した。松陰は同志と間部要撃をはかるが、これを心配した藩当局は12月、松陰を再び野山の獄に入れた。翌6年5月、幕府は藩に命じて松陰を江戸へ護送せしめ、伝馬町の獄に下し、11月27日死刑に処した。30年の生涯だった。

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