戦争画はルネッサンスだった ― 2025/12/06
まず、2020年11月11日の記事を再掲したいと思います。
一番好きな画家は藤田嗣治。
いつの時代もいいが、中でも戦争画(戦争記録画)に最も関心がある。
それについて8日(日)、福岡市美術館で同館学芸係長山口洋三さんの話と、RKBが1981年に制作したドキュメンタリー「絵描きと戦争」の上映があった。
戦争画なんて時代の徒花(あだばな)として見向きもされず研究もあまり進んでいないが、驚いたのはドキュメンタリーの中で一人の画家と一人の評論家が口をそろえて「戦争画はルネッサンスだった」と言ったことだ。
言葉は正確には覚えていないが、日本の油絵はずっと西洋の模倣、影響下にあったが、戦争画によって初めて本物のリアリズムになったという趣旨だったと思う。
言われてみればあり得ないことではない。
戦争画は一般に思われているようにプロパガンダではなかった。
学芸係長が語っていたが「日本が負けているシーンもけっこう描いている。事実を誇張している絵は意外とない。むしろ戦争の悲惨さを訴えているようにも見える」。
日本の画家たちが初めて時代と真剣に向き合って腕を磨いた結果、西洋の物真似から初めて脱し、敗戦後、日本の絵画が花開いたと考えてもおかしくない。目から鱗だった。
8日は講演と上映会で3時間余りあったので、10日再び福岡市美術館を訪れて常設展示まで見てきた。
すると関連企画として「藤田嗣治と関わった画家たち」という展示があった。面白かったのは鹿児島出身の二大巨匠の対照的な関わり方だ。
黒田清輝は美術学校で藤田を教えたが、授業で藤田の絵を悪い例として取り上げた。その後、藤田はパリに行ったが、そこでの絵画に衝撃を受け、黒田指定の絵具箱をたたきつけて壊したという。
一方、海老原喜之助は藤田と生涯にわたって交友があり、藤田の臨終をみとって、葬儀では君代夫人に代わって謝辞を述べたという。
ところで、藤田嗣治もまた林芙美子と接点がある。日中戦争の武漢攻略戦の際、従軍作家と従軍画家として出会っている。そのとき藤田が芙美子を描いた絵も残っている。詳しくは拙著で。
(以上、再掲)
このときから5年。
いま大学で学芸員資格を取ろうと勉強中だが、その中で再び戦争画への関心がよみがえってきた。
調べてみると、戦争画を取り巻く状況は変わっていない。
戦後80年の今年も、東京国立近代美術館が所蔵する戦争画(作戦記録画)153点の一括公開はならなかった。
10月下旬まで開催した企画展で展示したのはわずか24点。これでも過去最多という。
しかもチラシも図録もなく、ひっそりと開かれた。
なぜそんなことに?
日本は戦争に関するタブーが多すぎる。
残念でならない。
一方で、戦争画についての新しい本は出ている。読んで勉強し直したい。
晴れて学芸員となったら、戦争画に関する企画をやりたいものだ。
一番好きな画家は藤田嗣治。
いつの時代もいいが、中でも戦争画(戦争記録画)に最も関心がある。
それについて8日(日)、福岡市美術館で同館学芸係長山口洋三さんの話と、RKBが1981年に制作したドキュメンタリー「絵描きと戦争」の上映があった。
戦争画なんて時代の徒花(あだばな)として見向きもされず研究もあまり進んでいないが、驚いたのはドキュメンタリーの中で一人の画家と一人の評論家が口をそろえて「戦争画はルネッサンスだった」と言ったことだ。
言葉は正確には覚えていないが、日本の油絵はずっと西洋の模倣、影響下にあったが、戦争画によって初めて本物のリアリズムになったという趣旨だったと思う。
言われてみればあり得ないことではない。
戦争画は一般に思われているようにプロパガンダではなかった。
学芸係長が語っていたが「日本が負けているシーンもけっこう描いている。事実を誇張している絵は意外とない。むしろ戦争の悲惨さを訴えているようにも見える」。
日本の画家たちが初めて時代と真剣に向き合って腕を磨いた結果、西洋の物真似から初めて脱し、敗戦後、日本の絵画が花開いたと考えてもおかしくない。目から鱗だった。
8日は講演と上映会で3時間余りあったので、10日再び福岡市美術館を訪れて常設展示まで見てきた。
すると関連企画として「藤田嗣治と関わった画家たち」という展示があった。面白かったのは鹿児島出身の二大巨匠の対照的な関わり方だ。
黒田清輝は美術学校で藤田を教えたが、授業で藤田の絵を悪い例として取り上げた。その後、藤田はパリに行ったが、そこでの絵画に衝撃を受け、黒田指定の絵具箱をたたきつけて壊したという。
一方、海老原喜之助は藤田と生涯にわたって交友があり、藤田の臨終をみとって、葬儀では君代夫人に代わって謝辞を述べたという。
ところで、藤田嗣治もまた林芙美子と接点がある。日中戦争の武漢攻略戦の際、従軍作家と従軍画家として出会っている。そのとき藤田が芙美子を描いた絵も残っている。詳しくは拙著で。
(以上、再掲)
このときから5年。
いま大学で学芸員資格を取ろうと勉強中だが、その中で再び戦争画への関心がよみがえってきた。
調べてみると、戦争画を取り巻く状況は変わっていない。
戦後80年の今年も、東京国立近代美術館が所蔵する戦争画(作戦記録画)153点の一括公開はならなかった。
10月下旬まで開催した企画展で展示したのはわずか24点。これでも過去最多という。
しかもチラシも図録もなく、ひっそりと開かれた。
なぜそんなことに?
日本は戦争に関するタブーが多すぎる。
残念でならない。
一方で、戦争画についての新しい本は出ている。読んで勉強し直したい。
晴れて学芸員となったら、戦争画に関する企画をやりたいものだ。
国立戦争博物館を! ― 2025/12/10
イギリスには5か所も王立の戦争博物館があるという。
ロンドンに帝国戦争博物館、軽巡洋艦ベルファスト、チャーチル博物館。
そしてダックスフォードにダックスフォード帝国戦争博物館、マンチェスターに北帝国戦争博物館がある。
翻って東京国立近代美術館には戦争画(作戦記録画)が153点もありながら、一部を入れ替えで見られるだけで、一括公開はされていない。
国立戦争博物館を独立させて開設すべきだろう。
併せて国内に分散している戦争画を収集するようにする。
ロンドンに帝国戦争博物館、軽巡洋艦ベルファスト、チャーチル博物館。
そしてダックスフォードにダックスフォード帝国戦争博物館、マンチェスターに北帝国戦争博物館がある。
翻って東京国立近代美術館には戦争画(作戦記録画)が153点もありながら、一部を入れ替えで見られるだけで、一括公開はされていない。
国立戦争博物館を独立させて開設すべきだろう。
併せて国内に分散している戦争画を収集するようにする。
日独ともに不遇な戦争画 ― 2025/12/12
戦後、戦争画(作戦記録画)の多くは1951年にアメリカが持ち去った。
70年に153点が無期限貸与という形で返却されて東京国立近代美術館に収蔵されている。
宮下規久朗『戦争の美術史』によると、作品の扱いは日本に任されており、77年に50点程度まとめて公開する予定だったが、急遽中止。
77年以降、常設展示の一部として少しずつ展示し、他館への貸し出しにも応じているが、「近隣諸国への配慮」などからいまだに一堂に公開されたことはないという状況なのだ。
実は日本だけではない。
同書によると、ドイツの「もっとも扇動的な」戦争画450点はいまだにワシントンの膨大な陸軍美術コレクションの中にあって、公開も複製もされていない。
また、それ以外の戦争画1600点は1951年に西ドイツに返還され、さらに86年には7000点が返還された。しかし、いまだに全体調査がなされたこともないという。
ドイツの戦争画の「質」は知らない。
しかし、日本の戦争画の「質」が高いのは間違いない。
宮下氏は日本の戦争画について「日本美術史上きわめて重要な意義を持っている」とする。
「日本近代において後にも先にも見られないほど質の高い作品が多く生まれ、特にその画家の頂点を示すものが多いこと」とまで評価しているのだ。
戦争の記録としてだけでなく、日本の美術史上稀な作品の数々を一堂に見たいと思わないか⁉
70年に153点が無期限貸与という形で返却されて東京国立近代美術館に収蔵されている。
宮下規久朗『戦争の美術史』によると、作品の扱いは日本に任されており、77年に50点程度まとめて公開する予定だったが、急遽中止。
77年以降、常設展示の一部として少しずつ展示し、他館への貸し出しにも応じているが、「近隣諸国への配慮」などからいまだに一堂に公開されたことはないという状況なのだ。
実は日本だけではない。
同書によると、ドイツの「もっとも扇動的な」戦争画450点はいまだにワシントンの膨大な陸軍美術コレクションの中にあって、公開も複製もされていない。
また、それ以外の戦争画1600点は1951年に西ドイツに返還され、さらに86年には7000点が返還された。しかし、いまだに全体調査がなされたこともないという。
ドイツの戦争画の「質」は知らない。
しかし、日本の戦争画の「質」が高いのは間違いない。
宮下氏は日本の戦争画について「日本美術史上きわめて重要な意義を持っている」とする。
「日本近代において後にも先にも見られないほど質の高い作品が多く生まれ、特にその画家の頂点を示すものが多いこと」とまで評価しているのだ。
戦争の記録としてだけでなく、日本の美術史上稀な作品の数々を一堂に見たいと思わないか⁉
鹿児島考古資料館に「空襲コーナー」を! ― 2025/12/13
旧鹿児島県立博物館考古資料館。
鹿児島市城山町にある(照國神社至近)。
明治16年(1883年)建築。県内では尚古集成館(鹿児島市吉野町)に次いで古い。石造。
私が子供の頃は県立博物館だった(昭和28年~同55年)。
昭和56年から県立博物館考古資料館となるが、平成14年に閉館し、そのままになっている。
現在、保存活用が計画されているが、整備内容等の検討は令和8年度以降ということなので、ひとつ提言したい。
鹿児島市では昭和20年に米軍の空襲が計8回あり、被害は死者3329人、負傷者4633人に及んだ。
中でも6月17日の大空襲では市街地のほぼ全てが焼け、2316人もの犠牲者が出た。
考古資料館(当時は県商工奨励館)もこのとき被災し内部を焼失したが、石造部分が残ったものである。
すなわち一面の焼け野が原の中に残った、空襲の貴重なモニュメントであるから、ぜひとも内部の一室に鹿児島大空襲についての解説コーナーを設けてほしいのである。
2021年に鹿児島女子興業の「教務日誌」が発見され、空襲当日の様子が書かれた重要な資料だと分かった。
これをメーンの展示物としたい。
鹿児島市城山町にある(照國神社至近)。
明治16年(1883年)建築。県内では尚古集成館(鹿児島市吉野町)に次いで古い。石造。
私が子供の頃は県立博物館だった(昭和28年~同55年)。
昭和56年から県立博物館考古資料館となるが、平成14年に閉館し、そのままになっている。
現在、保存活用が計画されているが、整備内容等の検討は令和8年度以降ということなので、ひとつ提言したい。
鹿児島市では昭和20年に米軍の空襲が計8回あり、被害は死者3329人、負傷者4633人に及んだ。
中でも6月17日の大空襲では市街地のほぼ全てが焼け、2316人もの犠牲者が出た。
考古資料館(当時は県商工奨励館)もこのとき被災し内部を焼失したが、石造部分が残ったものである。
すなわち一面の焼け野が原の中に残った、空襲の貴重なモニュメントであるから、ぜひとも内部の一室に鹿児島大空襲についての解説コーナーを設けてほしいのである。
2021年に鹿児島女子興業の「教務日誌」が発見され、空襲当日の様子が書かれた重要な資料だと分かった。
これをメーンの展示物としたい。
藤田嗣治「アッツ島玉砕」 ― 2025/12/16
林芙美子が藤田嗣治の「アッツ島玉砕」を見たという記録はないが、私は小説『「花のいのち」殺人事件』(2011年、海鳥社)の中で、次のような一場面をもうけた。
芙美子は十八年五月、帰国した。
九月には陸軍美術協会主催の国民総力決戦美術展があり、藤田嗣治が大作を出品するというので東京府美術館に見に行った。
芙美子は息を呑んだ。
「アッツ島玉砕」という作品だった。
縦二メートルほど、横二メートル半ほどの暗い画面いっぱいに、死闘を繰り広げ、あるいは既に絶命した兵士たちが重なり合っている地獄絵図だった。アッツ島は北太平洋アリューシャン列島にある。ここの守備隊の全滅は芙美子の帰国直後のことだった。その玉砕は賞揚され、それを指揮した大佐は軍神とあがめられた。しかし、この絵は何の賛美もなく、ただ戦争の凄惨な実相を描いている。こんなものをよくぞ陸軍に提出したものだと舌を巻いた。しかも、藤田は現場に行っていないし、まして玉砕の場面など見ていない。想像だけでこれだけのものを描くとは。これこそ芙美子がやろうとしてできなかったものではなかったか。
会場にいる藤田を捜して、話しかけた。
「『アッツ島玉砕』すごいです」
藤田は、もちろん、という風にうなずいて、
「先月、スーチンが死んだんだ」
(以下、略)
芙美子は十八年五月、帰国した。
九月には陸軍美術協会主催の国民総力決戦美術展があり、藤田嗣治が大作を出品するというので東京府美術館に見に行った。
芙美子は息を呑んだ。
「アッツ島玉砕」という作品だった。
縦二メートルほど、横二メートル半ほどの暗い画面いっぱいに、死闘を繰り広げ、あるいは既に絶命した兵士たちが重なり合っている地獄絵図だった。アッツ島は北太平洋アリューシャン列島にある。ここの守備隊の全滅は芙美子の帰国直後のことだった。その玉砕は賞揚され、それを指揮した大佐は軍神とあがめられた。しかし、この絵は何の賛美もなく、ただ戦争の凄惨な実相を描いている。こんなものをよくぞ陸軍に提出したものだと舌を巻いた。しかも、藤田は現場に行っていないし、まして玉砕の場面など見ていない。想像だけでこれだけのものを描くとは。これこそ芙美子がやろうとしてできなかったものではなかったか。
会場にいる藤田を捜して、話しかけた。
「『アッツ島玉砕』すごいです」
藤田は、もちろん、という風にうなずいて、
「先月、スーチンが死んだんだ」
(以下、略)
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