次の支局長に来た者は! ― 2017/08/25
今急冷市長にこんなに嫌われたのも私の不徳の致すところだろう。
しかし、どんな不徳があったというのか。
鈍い私には分からない。
基本的に行政は批判しなければ新聞記事の体を成さない。
これはしようがない面がある。
例えば、県や市が予算を発表する。
「素晴らしい予算だ!」では新聞記事にならない。広報紙だ。どこかしら穴(問題)を見つけ、問題を指摘し、批判し、提言しなければならない。
鹿児島市や鹿児島県のような大きな行政組織なら、多少批判しようが構わない。
ところが、枕崎市程度の規模では南日本の支局長の顔や言動は誰もが知っている。恐ろしいくらいだ。
今振り返れば、私としては社会部時代にやってきた通りの報道姿勢だったのだが、市長にはカチンと来たのかもしれない。
枕崎空港は、1991年(平成3年)1月に、国内初の地域空港(コミューター空港)として開港した。
鹿児島空港へのアクセス機能はもちろん、名産の電照菊を輸送するなどの夢が描かれたようだが、飛行機をチャーターするのは高い。
利用者は思うように伸びず、毎年、赤字が累積した。
施設維持費用は年間8,000万円かかる。
当然、市議会では大問題だ。
ちょうど私が赴任した4月から特別委員会が設けられ、市長はけちょんけちょんに言われていた。
私は当然、がんがん新聞に書いた。
別に私がケチをつけているわけではない。
議会が議員が市長にケチをつけているのだ。
これを取り違える人が多い。マスコミが言っていると受け取るのだ。
昨今の朝日や東京新聞とは違う。当時、新聞が何も無い所に問題を作り上げたり、自分の意見を表明することなどなかった。
発言している本人でなく、報道するマスコミが恨まれる。市長自身、新聞社出身のはずだが。ま、編成局長というのが、どんな仕事か知らないが。
今急冷市長は大学時代の後輩である拾田・新聞社社長に支局長を代えてほしいと訴えた。
私は異動を断り、残り一年を歯を食いしばって耐えた。
そして3月、脇本に引き継いだ。
脇本は私と違って、如才ない男だった。
私が支局に出ている間に中途採用で入社したので、引き継ぎ時に初めて顔を合わせた。
異例の抜擢である。本社での修業もそこそこに支局長なのだから。
私は無念さが胸に渦巻いていたため、そのあたりの世間話はろくにしなかった。
しかし、後に驚愕の事実を知った。
脇本は市長と同じサンケイリビング新聞の出身だったのだ!
ここまでやるか!?
気に食わない私を途中交代させるのは失敗したものの、市長は旧知の新聞社社長と企んで、子飼いの人物を入社させ、支局長として手元に置いたのだ!
脇本はその後、順調に出世し、昨年、編集局長から取締役に昇進した。
社報には略歴も何も掲載されていないが、まだ53歳くらいだろう。
さてさて、私がいなくなった枕崎ではその年、またトンデモナイ事件が起こる。
しかし、どんな不徳があったというのか。
鈍い私には分からない。
基本的に行政は批判しなければ新聞記事の体を成さない。
これはしようがない面がある。
例えば、県や市が予算を発表する。
「素晴らしい予算だ!」では新聞記事にならない。広報紙だ。どこかしら穴(問題)を見つけ、問題を指摘し、批判し、提言しなければならない。
鹿児島市や鹿児島県のような大きな行政組織なら、多少批判しようが構わない。
ところが、枕崎市程度の規模では南日本の支局長の顔や言動は誰もが知っている。恐ろしいくらいだ。
今振り返れば、私としては社会部時代にやってきた通りの報道姿勢だったのだが、市長にはカチンと来たのかもしれない。
枕崎空港は、1991年(平成3年)1月に、国内初の地域空港(コミューター空港)として開港した。
鹿児島空港へのアクセス機能はもちろん、名産の電照菊を輸送するなどの夢が描かれたようだが、飛行機をチャーターするのは高い。
利用者は思うように伸びず、毎年、赤字が累積した。
施設維持費用は年間8,000万円かかる。
当然、市議会では大問題だ。
ちょうど私が赴任した4月から特別委員会が設けられ、市長はけちょんけちょんに言われていた。
私は当然、がんがん新聞に書いた。
別に私がケチをつけているわけではない。
議会が議員が市長にケチをつけているのだ。
これを取り違える人が多い。マスコミが言っていると受け取るのだ。
昨今の朝日や東京新聞とは違う。当時、新聞が何も無い所に問題を作り上げたり、自分の意見を表明することなどなかった。
発言している本人でなく、報道するマスコミが恨まれる。市長自身、新聞社出身のはずだが。ま、編成局長というのが、どんな仕事か知らないが。
今急冷市長は大学時代の後輩である拾田・新聞社社長に支局長を代えてほしいと訴えた。
私は異動を断り、残り一年を歯を食いしばって耐えた。
そして3月、脇本に引き継いだ。
脇本は私と違って、如才ない男だった。
私が支局に出ている間に中途採用で入社したので、引き継ぎ時に初めて顔を合わせた。
異例の抜擢である。本社での修業もそこそこに支局長なのだから。
私は無念さが胸に渦巻いていたため、そのあたりの世間話はろくにしなかった。
しかし、後に驚愕の事実を知った。
脇本は市長と同じサンケイリビング新聞の出身だったのだ!
ここまでやるか!?
気に食わない私を途中交代させるのは失敗したものの、市長は旧知の新聞社社長と企んで、子飼いの人物を入社させ、支局長として手元に置いたのだ!
脇本はその後、順調に出世し、昨年、編集局長から取締役に昇進した。
社報には略歴も何も掲載されていないが、まだ53歳くらいだろう。
さてさて、私がいなくなった枕崎ではその年、またトンデモナイ事件が起こる。
市長選対立候補の不可解な死 ― 2017/08/25
三期十二年務めた名物市長があっさりと引退を表明して、枕崎市の有力者たちは後継者選びに入ったが、地元候補では一本化できなかった。
そのため、東京で業界新聞の幹部をしていた今急冷に白羽の矢が立った。
長く故郷を離れており落下傘候補に近かったが、中央とのパイプを期待された。
今急冷は無投票当選した。
その後の人事では行政の要である総務課長の村中が助役に抜擢されるとみられた。
ところが、助役と収入役には上には逆らわない、実直なだけで年寄りじみた二人が選ばれた。
何かと直言してきそうな村中は敬遠され、近隣の一市三町でつくる広域消防組合の消防長に左遷された。
それからの村中は市長に対する恨みつらみを周りに隠そうとはしなかった。
酒席で誰かれ構わず今別府の悪口をまくし立て、その相手を逃れられる者はいなかった。
支局にもよくやってきたが、私は基本的によく人の話を聞くタイプなので、ますます通ってくる。
村中が頻繁に支局に出入りする姿を市長派に目撃され、注進されたのも、きっと私が今別府に憎まれた一因だろう。
そのため、東京で業界新聞の幹部をしていた今急冷に白羽の矢が立った。
長く故郷を離れており落下傘候補に近かったが、中央とのパイプを期待された。
今急冷は無投票当選した。
その後の人事では行政の要である総務課長の村中が助役に抜擢されるとみられた。
ところが、助役と収入役には上には逆らわない、実直なだけで年寄りじみた二人が選ばれた。
何かと直言してきそうな村中は敬遠され、近隣の一市三町でつくる広域消防組合の消防長に左遷された。
それからの村中は市長に対する恨みつらみを周りに隠そうとはしなかった。
酒席で誰かれ構わず今別府の悪口をまくし立て、その相手を逃れられる者はいなかった。
支局にもよくやってきたが、私は基本的によく人の話を聞くタイプなので、ますます通ってくる。
村中が頻繁に支局に出入りする姿を市長派に目撃され、注進されたのも、きっと私が今別府に憎まれた一因だろう。
市長選対立候補の不可解な死② ― 2017/08/25

1997(平成9)年11月6日正午過ぎ、三島村硫黄島の飛行場で、軽飛行機が離陸直後に墜落した。
硫黄島(いおうじま)は枕崎市の南方四十キロにある、周囲十九キロの小さな島だ。太平洋戦争の激戦地、硫黄島(いおうとう=東京都小笠原村)と読みは違うが紛らわしいため、対外的には薩摩硫黄島(いおうじま)と称する場合もある。
枕崎空港から軽飛行機なら二十分で到着する。霧島市溝辺町にある拠点空港、鹿児島空港からは五十分だ。
機体は滑走路から十メートルほど外れ、北側の草叢に墜落した。
尾翼はぽっきりと折れ、主翼もあちこちが破損していた。
不可思議な事故だった。
パイロットも乗客も無事だったが、乗客は墜落後に現場から立ち去り、行方不明になっているというのだ。パイロットの証言によると、乗客が操縦を妨害して機は墜落したのだという。
そのため精神状態を疑われたのか、警察発表では乗客は匿名だった。
黒島、硫黄島、竹島の有人三島からなる三島村は、役場を百キロ離れた鹿児島市に置いている。村営定期船で三時間半余り掛かるが、島同士を行き来するよりも行政の効率がいいのだ。だから、所轄も鹿児島中央警察署である。
当時の新聞コピーを鹿児島県立図書館から取り寄せたが、レファレンス係の見落としで、残念ながら南日本新聞6日付夕刊の一報はない。
写真は鹿児島新報7日付社会面である(新報は夕刊はない)。
新聞も警察発表通り、8日まで匿名だ(新報は9日も匿名)。
ただ、警察は匿名でも、枕崎市役所の空港課に問い合わせればすぐに身元は分かる。
だから、写真にも少し映っている通り、新報は匿名でありながら、男性の詳しい横顔を載せている。
新報はなんでもかんでも見境なく詳しく書くので、後で資料として見るときは南日本より役立つ場合が多い。その点では廃刊は残念だ。
「男性乗客は元枕崎市役所の幹部職員で、今年八月には報道陣に対して来年一月に行われる枕崎市長選に立候補することを表明していた。最近では選挙活動に向けての活動も活発に始めていた。
東和航空の事務所によると、十月ぐらいから頻繁に同社を訪れ、『空から広域的な行政を考える』と話し、遊覧飛行やチャーター便などを利用していたという」
私は支局最後の3月の「記者の目」で、「新しい広域の発想」と題して、東和航空のセスナ機による枕崎と三島村のつながりを提言していた。
村中さんは私の提言を考えてくれていた!
市長選に向け、二日後には決起集会を開く予定だったという。
それなのにどうして自殺行為を図ったのか。
「村中さん、どうしてそんなことを!」
私は事故を知り、心の中で叫んだ。
硫黄島(いおうじま)は枕崎市の南方四十キロにある、周囲十九キロの小さな島だ。太平洋戦争の激戦地、硫黄島(いおうとう=東京都小笠原村)と読みは違うが紛らわしいため、対外的には薩摩硫黄島(いおうじま)と称する場合もある。
枕崎空港から軽飛行機なら二十分で到着する。霧島市溝辺町にある拠点空港、鹿児島空港からは五十分だ。
機体は滑走路から十メートルほど外れ、北側の草叢に墜落した。
尾翼はぽっきりと折れ、主翼もあちこちが破損していた。
不可思議な事故だった。
パイロットも乗客も無事だったが、乗客は墜落後に現場から立ち去り、行方不明になっているというのだ。パイロットの証言によると、乗客が操縦を妨害して機は墜落したのだという。
そのため精神状態を疑われたのか、警察発表では乗客は匿名だった。
黒島、硫黄島、竹島の有人三島からなる三島村は、役場を百キロ離れた鹿児島市に置いている。村営定期船で三時間半余り掛かるが、島同士を行き来するよりも行政の効率がいいのだ。だから、所轄も鹿児島中央警察署である。
当時の新聞コピーを鹿児島県立図書館から取り寄せたが、レファレンス係の見落としで、残念ながら南日本新聞6日付夕刊の一報はない。
写真は鹿児島新報7日付社会面である(新報は夕刊はない)。
新聞も警察発表通り、8日まで匿名だ(新報は9日も匿名)。
ただ、警察は匿名でも、枕崎市役所の空港課に問い合わせればすぐに身元は分かる。
だから、写真にも少し映っている通り、新報は匿名でありながら、男性の詳しい横顔を載せている。
新報はなんでもかんでも見境なく詳しく書くので、後で資料として見るときは南日本より役立つ場合が多い。その点では廃刊は残念だ。
「男性乗客は元枕崎市役所の幹部職員で、今年八月には報道陣に対して来年一月に行われる枕崎市長選に立候補することを表明していた。最近では選挙活動に向けての活動も活発に始めていた。
東和航空の事務所によると、十月ぐらいから頻繁に同社を訪れ、『空から広域的な行政を考える』と話し、遊覧飛行やチャーター便などを利用していたという」
私は支局最後の3月の「記者の目」で、「新しい広域の発想」と題して、東和航空のセスナ機による枕崎と三島村のつながりを提言していた。
村中さんは私の提言を考えてくれていた!
市長選に向け、二日後には決起集会を開く予定だったという。
それなのにどうして自殺行為を図ったのか。
「村中さん、どうしてそんなことを!」
私は事故を知り、心の中で叫んだ。
市長選対立候補の不可解な死③ ― 2017/08/25
墜落したセスナ172型は長年不動のベストセラー機で、世界中を飛び回っているという。
二十八歳の男性パイロットは、陸上離発着の単発機(エンジンが一つ)限定の事業用操縦士技能証明書と第一種航空身体検査証明書を持ち、総飛行時間は七百時間超。つまり飛行機にも機長にも問題がない。
四人乗りで、前部二席のどちらにも操縦桿があり、互いに連動している。村中は右の操縦席、機長は左に座っていた。
離陸後、二十五―三十メートル上昇したとき、突然、村中が身を乗り出して両手で操縦桿を握り、体全体で押し下げた。機首が下がり、滑走路面が迫ってくる。
機長は「何をするんですかっ」と叫んで懸命に自分の操縦桿を引き上げようとするが、村中が全体重をかけているため動かない。
不時着するしかない。滑走路脇の竹藪がクッションになるだろう。スロットルを絞り、エンジンをアイドリング状態にする。
村中の左顎を右拳で殴り、ひるんだ隙に操縦桿を思いっきり引き上げる。
機体はぎりぎりのタイミングで地面との激突を回避。緑地帯を滑走し、半回転余りスピンして停止した――。
いったい事故なのか事件なのか。そこをはっきりさせなければならない。
現時点で操縦妨害と判断していいのか。
村中さんとパイロット二人の密室状況なのに、パイロットの言い分だけを頭から一方的に信じるなんて。
薩摩硫黄島飛行場には管制官がいるわけでもない。
薩摩硫黄島飛行場は一九七〇年代にリゾートホテル会社が客用に建設した。十年足らずでホテルが撤退したため、日本で唯一の村営飛行場となった。無線施設はない。待合所に嘱託職員が一人いるだけだ。
離陸したら、無線で鹿児島インフォメーション(鹿児島空港の航空管制情報官)を呼び出して時間を通報し、飛行計画書をオープンしてもらう。
着陸時には再び連絡して飛行計画書を閉じてもらう。もし連絡がなく着陸予定時間を三十分過ぎると、自動的に救難捜索が開始される仕組みだという。
可能性はいろいろ考えられる。
二人の間に何らかの理由で感情的な諍いが起きて掴み合いの喧嘩をしたのかもしれないし、実は単なるパイロットの操縦ミスで、それを隠しているのかもしれない。
二時間ドラマならば、パイロットがわざと機を墜落させ、村中を殺そうとした、なんて粗筋もありそうだ。
二十八歳の男性パイロットは、陸上離発着の単発機(エンジンが一つ)限定の事業用操縦士技能証明書と第一種航空身体検査証明書を持ち、総飛行時間は七百時間超。つまり飛行機にも機長にも問題がない。
四人乗りで、前部二席のどちらにも操縦桿があり、互いに連動している。村中は右の操縦席、機長は左に座っていた。
離陸後、二十五―三十メートル上昇したとき、突然、村中が身を乗り出して両手で操縦桿を握り、体全体で押し下げた。機首が下がり、滑走路面が迫ってくる。
機長は「何をするんですかっ」と叫んで懸命に自分の操縦桿を引き上げようとするが、村中が全体重をかけているため動かない。
不時着するしかない。滑走路脇の竹藪がクッションになるだろう。スロットルを絞り、エンジンをアイドリング状態にする。
村中の左顎を右拳で殴り、ひるんだ隙に操縦桿を思いっきり引き上げる。
機体はぎりぎりのタイミングで地面との激突を回避。緑地帯を滑走し、半回転余りスピンして停止した――。
いったい事故なのか事件なのか。そこをはっきりさせなければならない。
現時点で操縦妨害と判断していいのか。
村中さんとパイロット二人の密室状況なのに、パイロットの言い分だけを頭から一方的に信じるなんて。
薩摩硫黄島飛行場には管制官がいるわけでもない。
薩摩硫黄島飛行場は一九七〇年代にリゾートホテル会社が客用に建設した。十年足らずでホテルが撤退したため、日本で唯一の村営飛行場となった。無線施設はない。待合所に嘱託職員が一人いるだけだ。
離陸したら、無線で鹿児島インフォメーション(鹿児島空港の航空管制情報官)を呼び出して時間を通報し、飛行計画書をオープンしてもらう。
着陸時には再び連絡して飛行計画書を閉じてもらう。もし連絡がなく着陸予定時間を三十分過ぎると、自動的に救難捜索が開始される仕組みだという。
可能性はいろいろ考えられる。
二人の間に何らかの理由で感情的な諍いが起きて掴み合いの喧嘩をしたのかもしれないし、実は単なるパイロットの操縦ミスで、それを隠しているのかもしれない。
二時間ドラマならば、パイロットがわざと機を墜落させ、村中を殺そうとした、なんて粗筋もありそうだ。
市長選対立候補の不可解な死④ ― 2017/08/25
鹿児島空港を基地とする県警ヘリは、鹿児島市の谷山ヘリポートで鹿児島中央署員二十人を乗せて硫黄島へ出発。地元の消防団員と協力して男性の行方を捜索した。
事故の翌々日(11月8日)朝、村中は硫黄島の湾内から遺体で発見された。
滑走路の一方の端は、防風林が二十メートルほど続いたあと切り立った崖となっているが、ここから海に転落していた。
死因は頭がい骨粉砕骨折による脳挫傷。
死後約48時間経過していることから、飛行機墜落後まもなく転落したらしい。
それは自殺なのか、足を踏み外した事故なのか警察の調べでもはっきりしなかった。
〝憤死〟といえるのかもしれない。
村中は、航行中の航空機を墜落させたとして、「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律」違反の疑いで、被疑者死亡のまま書類送検された。
今急冷は1月、再び無投票当選した。
事故の翌々日(11月8日)朝、村中は硫黄島の湾内から遺体で発見された。
滑走路の一方の端は、防風林が二十メートルほど続いたあと切り立った崖となっているが、ここから海に転落していた。
死因は頭がい骨粉砕骨折による脳挫傷。
死後約48時間経過していることから、飛行機墜落後まもなく転落したらしい。
それは自殺なのか、足を踏み外した事故なのか警察の調べでもはっきりしなかった。
〝憤死〟といえるのかもしれない。
村中は、航行中の航空機を墜落させたとして、「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律」違反の疑いで、被疑者死亡のまま書類送検された。
今急冷は1月、再び無投票当選した。
金をドブに捨て続ける悪循環 ― 2017/08/25
私が枕崎支局で苦しんでいる間、本社は与次郎移転に向けて、とんでもないことを次々に決めていた。
まだ与次郎新本社は着工していないのだから、引き返せばいいものを、逆に大失態を取り繕うための金がどんどん流れていくのだ。
全くナンセンスで、喜劇と呼ぶしかない。
与次郎本社が災害に脆弱なため、バックアップ施設として国分市に第二印刷工場を造らざるを得なくなった。
土地代三億五千六百万円。プラス建設費三十億円。
本館地下に設置予定だった駐車場が、災害時水没の恐れがあるため変更、隣接地を購入のため十四億円。
鹿児島市中心部が遠くなったため、旧本社近くの南日本開発センター内にサテライト支局を開設(投資額不明)。
一方、埋立地であるため、杭打ち工費が膨らみ、十五階建ての予定は十三階建てとなった。
肝心の本社社屋は小さくなるという喜劇。
1996年9月、南日本新聞は発行部数40万部達成というピークを迎えた。
金はあったのである。
単純計算で、購読料3000円として毎月12億円の現金が入ってくる。
この慢心が、金をドブに捨てていても喜劇に気づかず、計画を止めることなく進めたのだろう。これが後に、とんでもないことになっていく。
三菱商事と大林組に一括発注し、1999年1月、ついに与次郎新本社が着工する。
まだ与次郎新本社は着工していないのだから、引き返せばいいものを、逆に大失態を取り繕うための金がどんどん流れていくのだ。
全くナンセンスで、喜劇と呼ぶしかない。
与次郎本社が災害に脆弱なため、バックアップ施設として国分市に第二印刷工場を造らざるを得なくなった。
土地代三億五千六百万円。プラス建設費三十億円。
本館地下に設置予定だった駐車場が、災害時水没の恐れがあるため変更、隣接地を購入のため十四億円。
鹿児島市中心部が遠くなったため、旧本社近くの南日本開発センター内にサテライト支局を開設(投資額不明)。
一方、埋立地であるため、杭打ち工費が膨らみ、十五階建ての予定は十三階建てとなった。
肝心の本社社屋は小さくなるという喜劇。
1996年9月、南日本新聞は発行部数40万部達成というピークを迎えた。
金はあったのである。
単純計算で、購読料3000円として毎月12億円の現金が入ってくる。
この慢心が、金をドブに捨てていても喜劇に気づかず、計画を止めることなく進めたのだろう。これが後に、とんでもないことになっていく。
三菱商事と大林組に一括発注し、1999年1月、ついに与次郎新本社が着工する。
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