私の夏は終わった ― 2021/08/07
【没後70年記念朗読「林芙美子、激動の世界を翔ける」中止のお詫び】
鹿児島県が6日、初の「爆発的感染拡大警報」を出しました。22日まで、県外との往来や来県は中止・延期するように求めています。12日からは鹿児島中央駅、鹿児島空港でPCR検査するそうです。
鹿児島でこんな厳しいことをやるなんて思ってもいませんでした。
オリンピックも無事終了しようかというこの時期に、どうしてこんな厳しい措置が必要なのか私は疑問ですが、残念ながら「不要不急の来県は中止・延期を」との要請には従わざるを得ないと判断しました。「よそから来るな」というわけですから。
おそらく週明けには公共施設の休館も発表されるでしょう。
会場のメルヘンホールは使用できなくなるでしょうし、たとえ使用が許されたとしても、イベント開催には逆風が吹きます。少なくとも気分よくできることはないでしょう。断念せざるを得ません。
日本人が日本の客観的な状況を科学的に判断して、コロナノイローゼから脱することを願ってやみません。
鹿児島県が6日、初の「爆発的感染拡大警報」を出しました。22日まで、県外との往来や来県は中止・延期するように求めています。12日からは鹿児島中央駅、鹿児島空港でPCR検査するそうです。
鹿児島でこんな厳しいことをやるなんて思ってもいませんでした。
オリンピックも無事終了しようかというこの時期に、どうしてこんな厳しい措置が必要なのか私は疑問ですが、残念ながら「不要不急の来県は中止・延期を」との要請には従わざるを得ないと判断しました。「よそから来るな」というわけですから。
おそらく週明けには公共施設の休館も発表されるでしょう。
会場のメルヘンホールは使用できなくなるでしょうし、たとえ使用が許されたとしても、イベント開催には逆風が吹きます。少なくとも気分よくできることはないでしょう。断念せざるを得ません。
日本人が日本の客観的な状況を科学的に判断して、コロナノイローゼから脱することを願ってやみません。
閉会式もまたひどかったが、選手たちは素晴らしかった ― 2021/08/09
開会式の感想は「幼稚でチープ、日本らしさがない」だった(7/24参照)。
しかし、まずは五輪が開催されたことをよしとして、我慢して最後まで見た。
それから競技が始まり、前半は日本がずっと金メダル争いのトップを走って、興奮した。
二日間足踏みしたが、後半再びメダルを取り始めた。
チャンネルを頻繁に切り替えながら、毎日ずっと目が離せなかった。
そして金メダル争いは3位をキープして終了。
五輪史上最高の成果を挙げた。
悪のオピニオンリーダー、朝日新聞が「五輪反対」を唱え続けたにもかかわらずだ。
朝日は表向きは、コロナの感染拡大の中、五輪どころではないとしながら、真意はいつもの、五輪を断念させて日本に恥をかかせてやろうという、底意地の悪い反日活動だ。
(それでいて五輪視聴率を一番かせいだのは系列のテレビ朝日だという。コロナで国民を「ゆすり」、五輪で国民に「たかり」、許せない)
しかし、選手たちはマスコミによる「日本はダメだ」の大合唱、そういう自虐史観的なものから自由だった。
日の丸を上げたい、君が代を歌いたいというコメントが目立った。
誇らしい人たちだ。
そして真っ先に「開催に感謝」を口にすることで、上手に気持ちよく批判をかわしていった。
まあ、選手に「開催に感謝」を言わせる社会って、何なのかとは思うが。
練習や競技に集中したいだろうに、そんなことに気をつかわせて。
にもかかわらず、史上最高の成果を挙げたのだ。
そして閉会式。
驚いた。
開会式以上にひどいとは。
日本には相当優秀な演出家が少なからずいるだろうに、どうやってあんなひどいものが作れるのか不思議なくらいだ。
電通が悪いのかどうかは知らないが、誰も台本やリハーサルをチェック、採点しないのだろうか。
やはり日本の文化は左翼系が支配しているから、日本らしさを出すのは苦手中の苦手なのだろう。
こちらはテレビを見なければいいが、あんな退屈なものを長時間見せられて、選手たちが可哀そうだ。
唯一、東京音頭のときだけが皆うれしそうだった。
それ以外、日本文化の発信はゼロに近かった。
日本を背負って戦った選手たちと、日本らしさを少しも出せなかった大会の演出側と。
日本社会の分断は五輪後も続く。
もちろん、日本を誇りに思う側を応援していく❕
しかし、まずは五輪が開催されたことをよしとして、我慢して最後まで見た。
それから競技が始まり、前半は日本がずっと金メダル争いのトップを走って、興奮した。
二日間足踏みしたが、後半再びメダルを取り始めた。
チャンネルを頻繁に切り替えながら、毎日ずっと目が離せなかった。
そして金メダル争いは3位をキープして終了。
五輪史上最高の成果を挙げた。
悪のオピニオンリーダー、朝日新聞が「五輪反対」を唱え続けたにもかかわらずだ。
朝日は表向きは、コロナの感染拡大の中、五輪どころではないとしながら、真意はいつもの、五輪を断念させて日本に恥をかかせてやろうという、底意地の悪い反日活動だ。
(それでいて五輪視聴率を一番かせいだのは系列のテレビ朝日だという。コロナで国民を「ゆすり」、五輪で国民に「たかり」、許せない)
しかし、選手たちはマスコミによる「日本はダメだ」の大合唱、そういう自虐史観的なものから自由だった。
日の丸を上げたい、君が代を歌いたいというコメントが目立った。
誇らしい人たちだ。
そして真っ先に「開催に感謝」を口にすることで、上手に気持ちよく批判をかわしていった。
まあ、選手に「開催に感謝」を言わせる社会って、何なのかとは思うが。
練習や競技に集中したいだろうに、そんなことに気をつかわせて。
にもかかわらず、史上最高の成果を挙げたのだ。
そして閉会式。
驚いた。
開会式以上にひどいとは。
日本には相当優秀な演出家が少なからずいるだろうに、どうやってあんなひどいものが作れるのか不思議なくらいだ。
電通が悪いのかどうかは知らないが、誰も台本やリハーサルをチェック、採点しないのだろうか。
やはり日本の文化は左翼系が支配しているから、日本らしさを出すのは苦手中の苦手なのだろう。
こちらはテレビを見なければいいが、あんな退屈なものを長時間見せられて、選手たちが可哀そうだ。
唯一、東京音頭のときだけが皆うれしそうだった。
それ以外、日本文化の発信はゼロに近かった。
日本を背負って戦った選手たちと、日本らしさを少しも出せなかった大会の演出側と。
日本社会の分断は五輪後も続く。
もちろん、日本を誇りに思う側を応援していく❕
林芙美子は長崎原爆を描いていた ― 2021/08/09
林芙美子は昭和26年6月に急逝したため、連載中の7作が絶筆になってしまった。その中でも「真珠母(しんじゅも)」という作品は注目だ。
主人公の畠中雪子は長崎市内で被爆する。
当日の描写はこうだ。
「丁度十一時頃であったろうか、ピカッと白い光りものがして、赤ん坊の景子を寝かしつけながら、隣家の屋根の方を、ぼんやり見ていた雪子は、ふわっと体が持ち上がるような気がした。隣家の屋根瓦が、五六枚ずつ煎餅をかきよせるように、ひとりでに動く。空が黄いろく昏くなった。耳底の裂けるような、爆音と同時のようだった。雪子はあわてて子供の上に伏さった。ざあっと雨の降るようなもの凄い音が四囲一面にたちこめている。
雪子は、大変なことになったと、景子に敷布をかぶせながら、離れの病室へ走って行くと、離れの柱が急角度にかたむき、叔母も叔父も穴のあいた壁ぎわに抱きあっていた。台所にいた雪子の母も、頭から砂をかぶって、離れへ走って来た。
離れは、土俵の四本柱のように、かたむいた柱があるきりで、屋根は吹きとばされている。
(略)
雪子の家は、浦上から金比羅山を中間にしてへだたっていたので、家にいたものだけは助かったが、叔母の娘達は姉は城山校へ土運びに行き、妹は県庁で、この日亡くなってしまった。」
文中には「長崎医大の、永井隆博士の書かれたもの」が出てくる。
有名な『長崎の鐘』が刊行されたのは昭和24年。林芙美子はそれを昭和26年には読んでいたのだ。
畠中雪子は危うく命は助かった。
「畠中」の名字で分かるように、夫は鹿児島の人間。出征中だったが、終戦後に戦死が分かる。
美しい未亡人の雪子はこれからどうなっていくのか、原爆をテーマにしたこの小説が未完になってしまったのは残念でならない。「雪子」は『浮雲』の「ゆき子」にも通じるから、芙美子はかなり気合を入れてこの小説を書こうとしていたに違いない。
芙美子が最後まで戦争にこだわり続けたことが分かる。
主人公の畠中雪子は長崎市内で被爆する。
当日の描写はこうだ。
「丁度十一時頃であったろうか、ピカッと白い光りものがして、赤ん坊の景子を寝かしつけながら、隣家の屋根の方を、ぼんやり見ていた雪子は、ふわっと体が持ち上がるような気がした。隣家の屋根瓦が、五六枚ずつ煎餅をかきよせるように、ひとりでに動く。空が黄いろく昏くなった。耳底の裂けるような、爆音と同時のようだった。雪子はあわてて子供の上に伏さった。ざあっと雨の降るようなもの凄い音が四囲一面にたちこめている。
雪子は、大変なことになったと、景子に敷布をかぶせながら、離れの病室へ走って行くと、離れの柱が急角度にかたむき、叔母も叔父も穴のあいた壁ぎわに抱きあっていた。台所にいた雪子の母も、頭から砂をかぶって、離れへ走って来た。
離れは、土俵の四本柱のように、かたむいた柱があるきりで、屋根は吹きとばされている。
(略)
雪子の家は、浦上から金比羅山を中間にしてへだたっていたので、家にいたものだけは助かったが、叔母の娘達は姉は城山校へ土運びに行き、妹は県庁で、この日亡くなってしまった。」
文中には「長崎医大の、永井隆博士の書かれたもの」が出てくる。
有名な『長崎の鐘』が刊行されたのは昭和24年。林芙美子はそれを昭和26年には読んでいたのだ。
畠中雪子は危うく命は助かった。
「畠中」の名字で分かるように、夫は鹿児島の人間。出征中だったが、終戦後に戦死が分かる。
美しい未亡人の雪子はこれからどうなっていくのか、原爆をテーマにしたこの小説が未完になってしまったのは残念でならない。「雪子」は『浮雲』の「ゆき子」にも通じるから、芙美子はかなり気合を入れてこの小説を書こうとしていたに違いない。
芙美子が最後まで戦争にこだわり続けたことが分かる。
今日のひとこと ― 2021/08/13
徳岡孝夫
国鉄の処理が済み、日航が済んだら、やがて最後の親方日の丸族NHKの分割と民営化だぞ。
~『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文春新書)
この本は惜しまれつつ休刊したオピニオン誌『諸君!』の巻頭コラム「紳士と淑女」を集めたものである。連載中、徳岡孝夫はずっと匿名だった。
ちょうど私が南日本新聞社に在籍した時期(1982-2008)とぴったり重なるので、懐かしく振り返りながら読んでいるところだ。
引用したのは1985年10月号の一節で、注目すべきは36年も前からNHKの分割・民営化がいわれていたということだ。
今もSNS上でNHKへの批判を見ない日はない。
敵はしぶといが、なんとかしなくてはならない。
国鉄の処理が済み、日航が済んだら、やがて最後の親方日の丸族NHKの分割と民営化だぞ。
~『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文春新書)
この本は惜しまれつつ休刊したオピニオン誌『諸君!』の巻頭コラム「紳士と淑女」を集めたものである。連載中、徳岡孝夫はずっと匿名だった。
ちょうど私が南日本新聞社に在籍した時期(1982-2008)とぴったり重なるので、懐かしく振り返りながら読んでいるところだ。
引用したのは1985年10月号の一節で、注目すべきは36年も前からNHKの分割・民営化がいわれていたということだ。
今もSNS上でNHKへの批判を見ない日はない。
敵はしぶといが、なんとかしなくてはならない。
今日のひとこと ― 2021/08/14
内田百閒
それから、方方に虎列剌(コレラ)が出来て、毎日毎日沢山の人が死んだ。死ぬと直ぐに役人が来て、死んだ者を棺桶に押込み、縄でからげて、それに棒を一本通して、後先を隠坊(おんぼう)がかついで、持って行ってしまう。だから虎列剌のお葬いを一本棒と云った。それから巡査が来て、家の者をみんな連れて行くのである。そうして激しい薬を飲まして、それで死んだら、又一本棒にして、焼場に持って行くのだと、みんなが話し合った。
~『百鬼園随筆』(新潮文庫)のうち「虎列剌」
特に感想はない。
内田百閒が好きでもない。
たまたま見かけた文章である。別に教訓も読み取れない。
それから、方方に虎列剌(コレラ)が出来て、毎日毎日沢山の人が死んだ。死ぬと直ぐに役人が来て、死んだ者を棺桶に押込み、縄でからげて、それに棒を一本通して、後先を隠坊(おんぼう)がかついで、持って行ってしまう。だから虎列剌のお葬いを一本棒と云った。それから巡査が来て、家の者をみんな連れて行くのである。そうして激しい薬を飲まして、それで死んだら、又一本棒にして、焼場に持って行くのだと、みんなが話し合った。
~『百鬼園随筆』(新潮文庫)のうち「虎列剌」
特に感想はない。
内田百閒が好きでもない。
たまたま見かけた文章である。別に教訓も読み取れない。
今日のひとこと ― 2021/08/14
稲川淳二(怪談家)
Q健康へのこだわりは?
粗食。朝ごはんしか食べない。最近は毎日、コンビニの冷やし中華です。
~産経新聞本日(8/14)付10面(読書面)
Q健康へのこだわりは?
粗食。朝ごはんしか食べない。最近は毎日、コンビニの冷やし中華です。
~産経新聞本日(8/14)付10面(読書面)
今日のひとこと ― 2021/08/15
徳岡孝夫
内地を敵であるかのように罵る沖縄の運動家諸君は、牛島司令官、長参謀長の自決に心うたれたことはないのか。
沖縄を奪還するために、戦艦大和の乗組員たちは欣然、片道燃料で出撃したのではなかったか。第二艦隊司令長官・伊藤整一は、何のために生還の可能性ゼロの作戦に従容として出ていったのか。伊藤司令官の一人息子は、何のために父の艦を護衛して死んだのか。
本土決戦になっていれば、われわれも死ぬ覚悟だったのだ。互いに和解しようではないか。
~『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文春新書)
雑誌『諸君!』1982年11月号だ。
1987年10月号にもまた、こう書いている。
「沖縄の死者たちの生命も、また高い。だから沖縄本島南部の古戦場には記念碑が林立し、その中には悪趣味に近いものさえある。沖縄を守り切れなかった非力を恥じて自決した牛島司令官や長参謀長の生命は安い。だから誰も祈らない」
鹿児島市加治屋町の甲突河畔に、「沖縄軍司令官 牛島満大将生い立ちの碑」が建っている。
牛島満とはどういう人だったのか。山岡荘八『小説太平洋戦争』(講談社文庫)第8巻から引くのが最もふさわしい。
「この悲劇の第三十二軍を指揮して果てた牛島満中将は薩摩の出身で、大西郷の崇拝者であり、そのゆえに綽名もまた今西郷と呼ばれていたのだが、彼は自決後、帝国陸軍では最後の『陸軍大将』をおくられ、ここにゆくりなくも、皇軍の最初の陸軍大将であった大西郷と同じ薩州人として、その首尾を飾ることになったのもふしぎな因縁を想わせる。
私は戦後沖縄をたずねたおり、さまざまな人々から、牛島大将を思慕する回顧談を聞かされた。大将のことを口にする時、それらの人々はそのほとんどが眼を赤くして、高潔な人格と温容ににじむ徳を讃えた。おそらく大西郷の敬天愛人の至誠を師表として厳しくおのれを鍛えた武将であったのに違いない。そう云えば、自決の直前にも、長参謀長と、城山における大西郷の死について淡々と語り合っていたという……」
誰も祈らないのなら、6月23日の自決の日、甲突河畔の碑の前に行って祈ろうではないか。
今年7月10日、長参謀長の出身地、福岡県粕屋町で初めての慰霊祭が行われた。
内地を敵であるかのように罵る沖縄の運動家諸君は、牛島司令官、長参謀長の自決に心うたれたことはないのか。
沖縄を奪還するために、戦艦大和の乗組員たちは欣然、片道燃料で出撃したのではなかったか。第二艦隊司令長官・伊藤整一は、何のために生還の可能性ゼロの作戦に従容として出ていったのか。伊藤司令官の一人息子は、何のために父の艦を護衛して死んだのか。
本土決戦になっていれば、われわれも死ぬ覚悟だったのだ。互いに和解しようではないか。
~『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文春新書)
雑誌『諸君!』1982年11月号だ。
1987年10月号にもまた、こう書いている。
「沖縄の死者たちの生命も、また高い。だから沖縄本島南部の古戦場には記念碑が林立し、その中には悪趣味に近いものさえある。沖縄を守り切れなかった非力を恥じて自決した牛島司令官や長参謀長の生命は安い。だから誰も祈らない」
鹿児島市加治屋町の甲突河畔に、「沖縄軍司令官 牛島満大将生い立ちの碑」が建っている。
牛島満とはどういう人だったのか。山岡荘八『小説太平洋戦争』(講談社文庫)第8巻から引くのが最もふさわしい。
「この悲劇の第三十二軍を指揮して果てた牛島満中将は薩摩の出身で、大西郷の崇拝者であり、そのゆえに綽名もまた今西郷と呼ばれていたのだが、彼は自決後、帝国陸軍では最後の『陸軍大将』をおくられ、ここにゆくりなくも、皇軍の最初の陸軍大将であった大西郷と同じ薩州人として、その首尾を飾ることになったのもふしぎな因縁を想わせる。
私は戦後沖縄をたずねたおり、さまざまな人々から、牛島大将を思慕する回顧談を聞かされた。大将のことを口にする時、それらの人々はそのほとんどが眼を赤くして、高潔な人格と温容ににじむ徳を讃えた。おそらく大西郷の敬天愛人の至誠を師表として厳しくおのれを鍛えた武将であったのに違いない。そう云えば、自決の直前にも、長参謀長と、城山における大西郷の死について淡々と語り合っていたという……」
誰も祈らないのなら、6月23日の自決の日、甲突河畔の碑の前に行って祈ろうではないか。
今年7月10日、長参謀長の出身地、福岡県粕屋町で初めての慰霊祭が行われた。
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