鳥の羽根3本つけた冑の武人2024/11/10

昨年6月30日付で取り上げた「三尾鉄」の冑をかぶった武人が、兵庫県立博物館には等身大で復元されている!

「日本ドラフト文学賞」今村翔吾さんの発想に万歳!2024/11/23

作家の今村翔吾さんが20日に発表した「日本ドラフト文学賞」。
いろいろ共鳴する点があった。

私は前身の「九州さが大衆文学賞」に応募したことがある(一次は通過)。
同賞はそれから間もなく終わってしまった。

今村翔吾さんは同賞の受賞者で、日ごろ佐賀への恩返しを公言しており、佐賀駅に「佐賀之書店」を開業したばかりだが、さらに同賞の流れをくむ文学賞を復活するというのだ。
まずこの「恩返し」という人柄が律儀でいいではないか。

そしてこの文学賞、従来にない素晴らしい特長2つを持っている。

まず「複数の出版社によるドラフト制度」。
つまり、選考委員ではなく、いきなり出版社が気に入った作品をドラフトするのだ。

世の中には悪辣な出版エージェントがある。
私も7年ほど前、Aエージェンシーに原稿を送ったことがある。
300枚の原稿を見てもらうのに5万円(税別)、50枚増すごとに1万円(税別)加算という手数料。有望なら出版社に紹介するという。

ちょっと高すぎると思ったが、社長が同郷ということもあり信用して原稿を送った。
返ってくるまで数か月かかった(途中、催促した)挙げ句、ごく簡単な講評と「出版社は紹介できません」とのことだった。
講評に具体性は一切なく、読んでいないんじゃないかと思った。
これで5万5000円‼

ホームページを見ると、こんな悪どい商売をまだ続けているようだ。皆さん、ご注意を!

これが日本ドラフト文学賞に応募すれば、同等のことを無料でやってもらえるのだ! 素晴らしいでしょう?

もう一つ素晴らしいのは、多くの文学賞が禁止している【過去に賞に応募した原稿】も受け付けるという点だ。

私はこれについてはまさに、本ブログの2017/9/21付で「応募作の使い回しは非難すべきことなのか」を書いている。
バックナンバーから読んでいただきたいところだが、そんな面倒なことをする人はいないだろうから、ちょっと長くなるが全文をコピペする。

(はじまり)
第21回「日本ミステリー文学大賞新人賞」の候補作4つが決まったそうだ。
予選委員7氏=円堂都司昭、香山二三郎、新保博久、千街晶之、細谷正充、山前譲、吉田伸子+光文社文芸局が10点満点で採点、討議のうえ選定したという。

予選委員の名前が出ているのも初めて見たが、
【予選委員からの候補作選考コメント】として、応募者の姿勢へのかなり強い批判が書かれていて驚いた。異例ではないか。

香山二三郎氏は「しつこいようだけど、次の二点にはくれぐれも気を付けて。応募作品は新作で。既応募作品での再応募は本賞では控えましょう。原稿の印字は字間を詰めて。読みにくいと端から印象が悪くなります」。
これくらいはいい。気をつけよう、という気になる。

新保博久氏は、ある作品(原文では明記)に「次にどう展開するのだろうとワクワク感を覚えた」が、「二年前の他賞の落選作という凶状が判明して支持を撤回した。再応募作が絶対に不可というわけではないが、以前の応募状況を問い合わせてもダンマリだったのは、作者も後ろめたいのだろう。その作品での落選歴を秘匿していても、予選委員はたいてい複数の賞を兼任しているから十中八九、露顕すると覚悟しておいてもらいたい」。最後に「恥じ入れ」とまで付け加えた。

確かに今回、予選の読み手は相当にいらいらした様子だ。

細谷正充氏は「他の新人賞に投稿して落ちた作品を、そのまま送ってくる“使い回し原稿”問題も、クローズアップされた。二重投稿ではないので応募規約に違反しているわけではないが、今回、同じ内容で四度目の投稿という作品があり、さすがに問題視せざるを得なかった。自分の作品が可愛いのは分かるが、プロの作家になりたいのだったら、見切る勇気も必要だろう」。

吉田伸子氏も「二重投稿はないものの、いわゆる“使い回し”(過去に別の賞に応募した作品)が目立ちました。過去に応募した時のタイトルと変えられていることから、故意だと推察しますが、これは止めていただきたい。過去の作品に拘る気持ちも分からなくはないですが、フェアではないと思います。それよりも、新しい作品へ気持ちを向けたほうがいい。新人賞が求めているのは「新しい芽」である、ということを心に留めておいて欲しいです」という。

ただ、応募者の立場から言わせてもらうと、自分では結構自信のあった原稿が一次予選も通過しない場合、「これ、ほんとに読んでもらったんだろうか」と疑ってしまうのは自然な心理だ。
悪気があってやっているのではない。自分の作品が可愛いのだ。
だから、別の賞に応募して、もう一度読んでもらおうとする。

書いた人ならわかるが、長編小説を書くのは本当に大変だ。
日々、部屋に引き籠るという孤独と、いくら時間を費やしても報われない巨大な徒労感と才能のなさに長時間耐えなければならない。

こうして出来上がった作品が可愛いのは当たり前だ。
ちゃんと読んでもらっているのか、読まれたとしても本当に正しい評価なのか、疑ってしかるべきだ。

業界人の評価があてにならない例は枚挙にいとまがない。
最も有名なものでは、ハリーポッターが十数社の出版社に断られたという例がある。

「恥じ入れ」とまで非難すべきことなのだろうか。
読むほうはせいぜい数時間だろうが、書くほうはどれだけの時間を費やしていることか。
これでは、書かずに読者でいるほうがずっと楽でいい、と思ってしまう。
(おわり)

どうでしょう。
今村翔吾さんの考えとほぼ同じだと思います。

私は日本ドラフト文学賞に応募し続けるつもりです。
(もちろん第1回でうまくいけばいいのですが)