作家デビュー20周年⁉2025/04/13

山下達郎のサンデー・ソングブックを聴いていたら、シュガーベイブを結成したのは1973年だが、レコードデビューは1975年。
日本では基本的にレコードデビューがデビューという決まりになっているので、今年がデビュー50周年ということらしい。

それでふと、自分の1冊目の奥付を見たら、2005年だった。
作家デビュー20周年なのだ!

でも20年で4冊しか出していなくて作家なんておこがましいので、ブックデビュー20周年ってとこかな。

今日のひとこと(「ぬ」が思い出せない)2025/02/08

今まで一番ハイペースでやったのは、1日で200ページです。キーボードを打つのも私は相当速いんですよ。
だけどこの間、たまたまペンで書く必要に迫られたんですが、全然スピードが出せないし、漢字が書けないので愕然としました。おまけに、ひらがなの「ぬ」が思い出せないんですよ。これはショックでしたね。
~森永卓郎さん(67)、産経新聞7日付「話の肖像画」⑦~


今、産経新聞で、亡くなった森永卓郎さんのインタビューを連載している。その中の一節。

森永さんは私と全く同い年だ。

だから、ひらがなの「ぬ」が思い出せないというのも他人事ではない。

私は今春から通信制大学に編入して歴史を学ぶ予定だ。
併せて学芸員資格課程も取るつもりなので、4年計画で行こうと考えている。

頭の衰えと、卒業するのと、追いかけっこだ。

「日本ドラフト文学賞」今村翔吾さんの発想に万歳!2024/11/23

作家の今村翔吾さんが20日に発表した「日本ドラフト文学賞」。
いろいろ共鳴する点があった。

私は前身の「九州さが大衆文学賞」に応募したことがある(一次は通過)。
同賞はそれから間もなく終わってしまった。

今村翔吾さんは同賞の受賞者で、日ごろ佐賀への恩返しを公言しており、佐賀駅に「佐賀之書店」を開業したばかりだが、さらに同賞の流れをくむ文学賞を復活するというのだ。
まずこの「恩返し」という人柄が律儀でいいではないか。

そしてこの文学賞、従来にない素晴らしい特長2つを持っている。

まず「複数の出版社によるドラフト制度」。
つまり、選考委員ではなく、いきなり出版社が気に入った作品をドラフトするのだ。

世の中には悪辣な出版エージェントがある。
私も7年ほど前、Aエージェンシーに原稿を送ったことがある。
300枚の原稿を見てもらうのに5万円(税別)、50枚増すごとに1万円(税別)加算という手数料。有望なら出版社に紹介するという。

ちょっと高すぎると思ったが、社長が同郷ということもあり信用して原稿を送った。
返ってくるまで数か月かかった(途中、催促した)挙げ句、ごく簡単な講評と「出版社は紹介できません」とのことだった。
講評に具体性は一切なく、読んでいないんじゃないかと思った。
これで5万5000円‼

ホームページを見ると、こんな悪どい商売をまだ続けているようだ。皆さん、ご注意を!

これが日本ドラフト文学賞に応募すれば、同等のことを無料でやってもらえるのだ! 素晴らしいでしょう?

もう一つ素晴らしいのは、多くの文学賞が禁止している【過去に賞に応募した原稿】も受け付けるという点だ。

私はこれについてはまさに、本ブログの2017/9/21付で「応募作の使い回しは非難すべきことなのか」を書いている。
バックナンバーから読んでいただきたいところだが、そんな面倒なことをする人はいないだろうから、ちょっと長くなるが全文をコピペする。

(はじまり)
第21回「日本ミステリー文学大賞新人賞」の候補作4つが決まったそうだ。
予選委員7氏=円堂都司昭、香山二三郎、新保博久、千街晶之、細谷正充、山前譲、吉田伸子+光文社文芸局が10点満点で採点、討議のうえ選定したという。

予選委員の名前が出ているのも初めて見たが、
【予選委員からの候補作選考コメント】として、応募者の姿勢へのかなり強い批判が書かれていて驚いた。異例ではないか。

香山二三郎氏は「しつこいようだけど、次の二点にはくれぐれも気を付けて。応募作品は新作で。既応募作品での再応募は本賞では控えましょう。原稿の印字は字間を詰めて。読みにくいと端から印象が悪くなります」。
これくらいはいい。気をつけよう、という気になる。

新保博久氏は、ある作品(原文では明記)に「次にどう展開するのだろうとワクワク感を覚えた」が、「二年前の他賞の落選作という凶状が判明して支持を撤回した。再応募作が絶対に不可というわけではないが、以前の応募状況を問い合わせてもダンマリだったのは、作者も後ろめたいのだろう。その作品での落選歴を秘匿していても、予選委員はたいてい複数の賞を兼任しているから十中八九、露顕すると覚悟しておいてもらいたい」。最後に「恥じ入れ」とまで付け加えた。

確かに今回、予選の読み手は相当にいらいらした様子だ。

細谷正充氏は「他の新人賞に投稿して落ちた作品を、そのまま送ってくる“使い回し原稿”問題も、クローズアップされた。二重投稿ではないので応募規約に違反しているわけではないが、今回、同じ内容で四度目の投稿という作品があり、さすがに問題視せざるを得なかった。自分の作品が可愛いのは分かるが、プロの作家になりたいのだったら、見切る勇気も必要だろう」。

吉田伸子氏も「二重投稿はないものの、いわゆる“使い回し”(過去に別の賞に応募した作品)が目立ちました。過去に応募した時のタイトルと変えられていることから、故意だと推察しますが、これは止めていただきたい。過去の作品に拘る気持ちも分からなくはないですが、フェアではないと思います。それよりも、新しい作品へ気持ちを向けたほうがいい。新人賞が求めているのは「新しい芽」である、ということを心に留めておいて欲しいです」という。

ただ、応募者の立場から言わせてもらうと、自分では結構自信のあった原稿が一次予選も通過しない場合、「これ、ほんとに読んでもらったんだろうか」と疑ってしまうのは自然な心理だ。
悪気があってやっているのではない。自分の作品が可愛いのだ。
だから、別の賞に応募して、もう一度読んでもらおうとする。

書いた人ならわかるが、長編小説を書くのは本当に大変だ。
日々、部屋に引き籠るという孤独と、いくら時間を費やしても報われない巨大な徒労感と才能のなさに長時間耐えなければならない。

こうして出来上がった作品が可愛いのは当たり前だ。
ちゃんと読んでもらっているのか、読まれたとしても本当に正しい評価なのか、疑ってしかるべきだ。

業界人の評価があてにならない例は枚挙にいとまがない。
最も有名なものでは、ハリーポッターが十数社の出版社に断られたという例がある。

「恥じ入れ」とまで非難すべきことなのだろうか。
読むほうはせいぜい数時間だろうが、書くほうはどれだけの時間を費やしていることか。
これでは、書かずに読者でいるほうがずっと楽でいい、と思ってしまう。
(おわり)

どうでしょう。
今村翔吾さんの考えとほぼ同じだと思います。

私は日本ドラフト文学賞に応募し続けるつもりです。
(もちろん第1回でうまくいけばいいのですが)

取材メモの考え方が青山さんとは真逆2024/08/10

青山繁晴さんが来月はじめに『反回想――わたしの接したもうひとりの安倍総理』という本を出す。

予告によると、帯にこんな文章が書かれるという。

「記者を18年と9か月、務めたときの原則があります。相手の眼を見て心を通わせ、メモ帳に根を落とさないことです。その代わり、相手の言葉を正確に記憶する、終わるとすぐにメモに起こす。電話も起こす。したがって本書の安倍さんの言葉についても、正確に言葉の通りです。」

私も新聞記者を26年やった(取材記者13年、内勤13年)が、青山さんのやり方は信じられない。
私は取材した相手のすべての言葉を一言一句もらさず全て、ノートにメモした。

そうしないと正確な原稿を書く自信がなかったからだ。
もちろん記事を書くときに全てを読み返すわけではない。
すばやくメモを取りながら、記事に使いそうな言葉にはさっと下線を引いているから、そこを中心に記事を書いていく。

おかげで、記事内容に相手から「言ったことと違う」とクレームがついたことは一度もない。

はっきり言って、青山さんが「相手の言葉を正確に記憶」したということには眉に唾を付けている。

私は神経質すぎたかもしれない。
私のようにすべてをメモする記者もいないだろうし、青山さんのように全くメモをしない記者もいないだろう。

国会図書館恐るべし2023/06/07

国立国会図書館オンラインの所蔵資料検索で、試しに「宮田俊行」と入れてみると、私がこれまで書いた単行本や文章8件が過不足なく出てきた。

野崎六助「こんな面白い作品は初めて」2023/03/15

私が書いた小説「取材ノートのマンモス」について、野崎六助氏は「(月刊公募ガイドの)講座に寄せられてくる数多の原稿のうちで、こんなに面白い作品に当たるのはおよそ初めてのことでした」と高い評価を与えてくれた。

野崎 六助(のざき ろくすけ、1947年11月9日 - )は、日本の小説家、文芸評論家。 東京都品川区生まれ。京都府立桃山高等学校卒業。コック、大工など多数の職を経る。1992年、『北米探偵小説論』で第45回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞。推理小説、推理小説評論を主に書く。日本推理作家協会会員。=『ウィキペディア(Wikipedia)』=

私はこの作品「取材ノートのマンモス」を公募には出さず、親しい友人である鹿児島市の出版社ジャプランの求めに応じて、「現代鹿児島小説大系」中の一篇として提出した。
このため、残念ながら広く手に取りやすい作品とはなっていない。

コメント欄から連絡をいただければ、同書(函入り、408ページ)定価5000円(税別)のところを1500円(税込み、送料込み)でお分けいたします。
コメントはチェックしてから公開する設定にしていますので、他の人に見られる心配はありません。

南日本文学大賞受賞者の男性からも「『現代鹿児島小説大系』全4巻の作品の中で、一番面白かった」と言われました。ぜひご一読ください。

◎「取材ノートのマンモス」あらすじ
 江頭順平は南国日日新聞社で長く記者をやってきた。
 ある日、会社が突然、グループ企業を一つにまとめるという名目で新築移転計画を発表した。江頭はその準備室に異動になる。
 内情を知ると移転には金がかかり過ぎており、誰かが不正をしている疑いがある。だが、江頭は立場上、社長の命じるまま新社屋建設を先頭に立って推進しなければならなかった。
 新社屋は完成し、江頭は今度は社史編纂室に配属になる。
 そんなとき、新社屋建設準備室で部下だった平岡が、動物園の象の池で溺れるという怪死事件が起こる。これは事故死か殺人か――。 伝説の英雄ゴウキチが起こした戦の生き残りが創立したという、誇り高い歴史を持つ新聞社は、今や犯罪と疑惑にまみれている――。江頭は葛藤しながら、事件の謎解きに挑む。

※前回書いたように、ゴウキチは大江健三郎『同時代ゲーム』の「壊す人」に触発された存在です。

母の見舞い2022/11/13

 あれは確か大学卒業の前年だったろう、母がまた入院したというので、夏休みで帰省した私は見舞いに行くことにした。病院は南北に細長い県庁所在地の一番南の外れにある赤十字病院だった。私の実家は北の台地にあるので、私営のバスでいったん中心街に下りて、また別の民間バスに乗り継いでいかねばならない。免許は持っていたのだが、車は父が通勤に使っていた。あるいは父は県内の別の町に単身赴任中だったかもしれない。ともかく車はなかった。でもそんなことは大したことじゃない。出かける前に大きな問題が起こった。
 高校時代の友人から電話があり、自分も帰省しているから会おうというのである。私は、これから母の見舞いに行くから、と断った。ところが、友人は引き下がらないのである。私はせっかくの水入らずに友人など連れて行きたくはない。おまけに日程の都合で見舞いに行けるのはその日しかなかった。そのころ東京では長期のアルバイトをやっていたし、上京してからようやく初めての恋人らしきものができたばかりだったという、そうしたもろもろの理由で滞在日程は短かったのだ。なんと言っても、入院という事情が事情である、普通なら分かってくれるはずだ。
 この友人をここではNとしよう。Nと私とは高校二年の時に同じクラスになった。Nはこの町にある、全国的に知らない者はないくらいの有名な私立の中学校から、県立高校であるうちの高校に入ってきていた。その私立は中高一貫教育だったから、高校で転じたのは奇妙なことだった。それにNは成績も悪くなかった。もっともそれは最初だけで、どんどん下降していったのだが、それは私も同じだ。Nはガロアという二十歳で死んだフランスの数学者に憧れていた。そのガロアの理論をNが本当に理解しているかどうかは数学に興味のない私にはわからなかったが、とにかくガロアはカッコイイ(当時の若者には最高の褒め言葉だった)らしかった。
 私はNの家によく遊びに行った。Nはジャズピアニストのキース・ジャレットのレコードをよく掛けた。本棚には手塚治虫の「火の鳥」の大判のコミックを全巻揃えていた。その本棚のさらに奥には、普通の高校生ならとても読みそうにない、どころか見たことさえない「SMマガジン」とか「薔薇族」などという淫靡な雑誌が隠してあった。Nはいったいどんな顔をしてそれらの雑誌を本屋で買うのだろう。私は一度だけその雑誌を借りたことがあったが、あまりに変態的で読めた代物ではなかった。その中で今でも覚えている読み物がある。それは小人の男が主人公で、いつも女性に馬鹿にされじらされ弄ばれているのだが、あるときついに女性器の中に身体ごと入って、すなわち全身が性器と化して強烈なエクスタシーを感じるというものだった。
 Nは硬式テニスが上手で少しは自信もあったようだが、校内の持久走大会で運動の得意ではない私が終盤に抜き去るとびっくりして、次に「へへへ」と照れ臭そうに笑ったものだ。Nとはバンドの真似事もした。とにかく二年の時はよく遊んだのだ。三年になると理系と文系に分かれ、Nは結局東京のぱっとしない私立の理科大学に進んだ。私も東京の私立大学に進んだのだから、東京で会うこともできるのだ。
 それなのに、私が母親の見舞いだと言っているのに、Nはそれなら自分も一緒に行くという。Nはどうしてこんなわがままを言ったのだろう。病床というのはある意味、神聖な場であろう。母の病気は生易しい病気ではなかった。私がちょうど大学受験のころのことだった。夜、父が「お母さんがおかしい」と困った様子で呼びに来たので両親の寝室に行ってみると、母が布団の上で身を屈め、手を押さえて「痛い、痛い」と泣いていた。Nの口癖に「よかいさ」というのがある。方言で「いいじゃないか」という意味である。きっとこのときもNは「よかいさ」と言ったのだろう。私はバスの時間も迫っており、「わかった、わかった」ということになったのかもしれない。
 同じ市内とはいえ、バスの接続がうまくいったとしても病院まで二時間以上かかる。道中の会話などは覚えていない。町外れへ向かうバスはがらんとしていたに違いない。南国の夏は暑くて窓をいっぱいに開け放し、会話も弛緩していただろう。海沿いの道を長く走った。この町は大きな火山の外輪山の内側に海が流れ込んでそのまま湾になっているので、平地は海沿いに細く長くあるだけだ。市街地も住宅地も抜け、まばらな集落の向こうにヨットハーバーが見えてきた。
 ようやく着いた病院は、海の中に突き出た広い敷地にあった。懐かしい小中学校の木造校舎のような建物が延々と続いている廊下を歩いていくと、母がいた。
 母は病院の白い着物を着ていた。不意の客であるNにも嫌な顔ひとつ見せず、輝くような笑顔で迎えてくれた。しばらくしてから、母が着物の裾をまくって自分の太腿を見せたのを覚えている。白い太腿の内側には赤い大きなあざがあった。「こんなところに、ほら、血の固まりができてしまって」。そんな言葉で明るく話したが、それは大変なことに違いなかった。母は循環器系の難病に冒されていた。血が多い上に固まりやすく、それが身体の末端部に詰まって壊疽をつくり激痛が走る。元来、母は従順な人で、物事に細かく口やかましい父に口答えひとつしたことがなかった。そうした長年の我慢がそうした症状となって出たのではないかとも思えた。私は母が良くなるなら大学受験などあきらめようと思い詰めたものだった。母は壊疽となった片手の人差し指を手術で切断するという大きな犠牲を払ったが、それで症状はいったん落ち着いた。そして私は第一志望には通らなかったものの、受かった大学に進学した。その後も母は症状が悪化しては足の指を何本か切るという繰り返しで、病気は一進一退という形だった。それが、これまでと違って手足の末端部ではない太腿にまで内出血しだしたというのはどういうことだろう。一進一退ではなく、確実に事態は悪い方に向かっていたのではなかったか。Nがいたから遠慮したのか、その詳しい説明はなかった。私は今さらながらNを連れてきてしまったことを後悔した。私はもっともっと母と甘いひとときを持ちたかった。物足りないままに母の元を辞した。そのあとNとどうしたのか全く記憶にないが、言葉少なく別れたと思う。
 その翌年、母は亡くなった。すなわち、あれは結果として母と共有できた残り少ない貴重な時間だったわけだ。
 あれからもう四十年余りがたつが、私のNに対する憎しみはかえって増している。
 あの日、台無しになってしまった病院でのこと、こればかりは取り返しがつかない。Nはどうしてあんな思いやりのないことをしたのか。赤の他人に患部の太腿を見せた母の気持ちを考えるといたたまれない。
 Nにはもう一生会うことはないだろう。会ってNを責め、反省させてやりたい気もするが、それとて不愉快なだけだ。