同期の死2017/08/26

 また人の不慮の死について語らなければならないのは残念である。

 私は昭和57年(1982)、株式会社南日本新聞社に入社した。
 同期は20数人の大所帯だった。

 といっても、大部分が新卒で、中途の7月に入社した〝真の同期〟は3人だった。

 うち編集局に配属されたのは、私を入れて6人だったか。

 当時、原稿は手書きで、活字を拾って印刷していたので、校閲作業は非常に重要だった。 
 
 新人記者はまず校閲部で1年修業する倣いだった。

 7月に入ってすぐ、同期に労働組合の班長をやるように頼まれた。
 校閲・地方・庶務三部の部員からなる班である。

 南日本は社員全員が組合に強制加入するユニオン・ショップ制である。七月入社だったので新入社員全員が受けたという組合の研修も受けていない。
 班長と執行委員は職場の組合活動の要なのだが、どんなに面倒な役か、もちろんそんなことも知らない。
 何のことか分からぬまま気軽に承諾した。お人好しの馬鹿丸出しである。

 まさか、これが罠だったとは。

 班長と執行委員は夏の大会で交代するので、定期異動ができないのだ。
 翌春、同期が皆、晴れて取材に出たとき、私一人が残留した。

 この人の悪い、否、要領のいい連中は現在、皆出世している。

 ついでに言えば、私の次に大島支社長になったのは同期のMだった。
 私に冷蔵庫、洗濯機、掃除機をくれ、と電話してきた。
 単身暮らしであっても必須の三点セットだ。まだ買って二年の新品である。
 私ならこんな厚かましいことは言えない。というか、そもそも思いつかない。

 このときも二つ返事でOKしてしまった。ま、礼儀上、何かお返しはあるだろうと思った。ところが、本当に何もなかった。
 お人好しでは利用されるだけ、感謝はされない。

 編集の同期のうち、一人、私と気質のよく似た、良く言えば優しい、悪く言うと気の弱い上村がいた。

 私の最後の職場となる編集部で、上村と一緒になった。ともに副部長(デスク)である。

 当時、編集部長の1人に東坊というパワハラの塊みたいな男がいた(日勤、夜勤のシフトがあるので部長は3人いた)。

 東坊が編集部デスク時代に、部員として一緒にやったことがあるが、部員のレイアウト用紙を見て、必ず「うんにゃ、そぃや、やむっが」と人の仕事を全否定する男だった。

 ある気の強い部員が、あまりのことに倍尺(物差しのようなもの)で机をバンバン叩いて抗議したことがあったが、そんなことには平気の平左である。

 この東坊が部長になって、一層パワーアップしていた。

 上村と私は特に狙われ、部員の前でも容赦なく叱責された。

 職場で話すこともなかったが、組合のストで作業がストップし、社外に2人で夕食を取りに行ったことがあった。

「早く50になって、会社を辞めたいね」
 2人とも同じことを考えていた。
 50歳になったら、早期退職制度がある。

 ところが、2005年2月、上村は自殺した。
 自宅の箪笥の取っ手に布か紐かを掛けて、座る形で首を吊ったという。
 46歳だった。
 50になるまでとても待てなかったのだろう。分かる。私もこのころ、一日一日がとても辛かった。

 女性問題での悩みがあったと噂されたが、東坊が上村を殺したも同然であることは私には明らかだった。
私も全く同じことをやられたから分かる。

 パワハラが世間で問題視される少し前で、自死であるだけにひっそりと葬儀が行われた。

 上村の奥さんを知っていたので、家に線香を上げに行った。
 職場に行くのが苦痛で毎日、朝から焼酎を飲んでいたと聞いた。
 死んだ日も飲んでいたという。

 世渡りが下手、処世術に疎い、というのは、命に関わることなのだ。
 人ごとではない。

 私はある意味、上村に感謝している。
「俺はどんなことがあっても生き延びる」と思えたからだ。

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