新羅の王には日本人が8人もいた2018/11/29

神功皇后は三韓を征伐した英雄である。

そう思って尊敬し、近所にあるゆかりの御勢大霊石、隼鷹、日吉、力武竃門の各神社、また宇美八幡宮をこのところ重点的に回ってきた。

ところが、竹田恒泰『現代語古事記』を読んでいたら、なんと!

神功皇后は新羅の皇子の子孫だという。

確かに、「古事記」応神天皇の7にはっきり書いてある。
新羅の国王の皇子、天之日矛(あめのひぼこ)が日本に来て日本人との間に子供を作り、その5代目に当たるのが神功皇后の母である。

かなり遠いとはいえ、朝鮮の血が流れているのには違いない。

ショックを受けて、神功皇后への熱が一気に冷めてしまった。

しかし、今度は室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』を読んでいたら、ことはそう単純ではないことが分かった。

脱解(たれ)という日本人が新羅四代目の王位に就いているのだ。
そして同じ日本人を大輔(総理大臣)にしている。

これは半島に伝わる最古の正史『三国史記』に書いてあることだ。

さらにその後、脱解の子孫から七人もが王位に就き、しかも名君ぞろいだったという。

ここで『古事記』に戻る。
新羅の皇子、天之日矛(あめのひぼこ)がどうして日本に来たかというと、妻が「元々私はあなたの妻になるべき女ではありません。私の祖(おや)の国に行きます」と言って、ひそかに船で難波(大阪)に帰ったため、追いかけてきたのだ。

天之日矛が難波に行こうとすると神が遮る。
そこで天之日矛は多遅摩国(但馬国、兵庫県北部)に留まり、多遅摩の娘と結婚して子供が生まれる。
その子孫が息長帯比売命(神功皇后)というわけだ。

ここで、あれ?と思う。

『三国史記』に「脱解はそもそも多婆那(たばな)国の生まれだ」とある。

室谷氏は、多婆那国は「鳥取県東部から但馬地方あたりか、あるいは新潟県あたり」と推測している。

となると、天之日矛が新羅から来て留まったのが但馬で、新羅に渡った脱解の出身地も但馬の可能性がある…というのは、何を意味するのか??

天之日矛は日本人あるいは日系の可能性が高い。
そうなると神功皇后には朝鮮の血は流れておらず、バンザーイということになる。