韓国は明治維新のときから日本大使館に無礼を働いた2019/07/29

 韓国は首都ソウルの日本大使館前や、釜山の日本総領事館前などに国際法に違反して慰安婦像を設置したまま撤去せず、日本に侮辱を与え続けている。
 さらに今月19日、ソウルの日本大使館に侵入したワゴン車が炎上するテロ行為を男が起こし、22日には釜山の日本総領事館に大学生6人が侵入して騒いだ。

 実は百五十年前の明治初年にも韓国(当時の朝鮮)は、釜山の草梁(そうりょう)公館という今でいえば日本大使館に当たる所で、日本に侮辱を与え続けていた。

 事情はこうだ。
 明治新政府は慶応四年(明治元年)正月、欧米六か国の公使に王政復古を告げた。朝鮮に対しては、対馬国厳原(いずはら)藩主宗重正(義達)を通じて伝えた。

 徳川幕府と朝鮮との間に立ってきた宗氏は長年、朝鮮から「愚弄軽侮」を受け続けてきたため、ここぞとばかりに誇らしく新時代を告げる(徳富蘇峰『近世日本国民史86征韓論前篇』所収の原文を読み下した)。

「我邦(わがくに)皇祖聯綿、一系相承(あいうけ)、太政を総攬する、ここに二千有余歳。(略)貴国と交誼、すでにすでに久し。宜しく益々懇かんを結び、万世変わらざるべし、これ我が皇上の盛意なり。すなわち使を馳せ以て旧好を修む。冀(こいねがわ)くはこの旨を諒せ」(慶応四年九月、左近衛少将対馬守・平朝臣義達)

 これを朝鮮が受け取りさえすれば何の問題もなかったのだが、摂政の大院君は、鎖国攘夷に固執し、日本の開国進取の新政を喜ばなかった。

 このため宗重正は同年十一月、一書を追加した。
 前回使った肩書「左近衛少将」の説明を改めてしているところに気づかいが見える。

「本邦このごろ時勢一変、政権一つに皇室に帰す。貴国と隣誼あり固より厚し。(略)不侫(ふねい=自己の謙称)先に勅を奉じ京師(京都)に朝す(参内した)。朝廷は旧勲を褒めて爵を加え官位を左近衛少将に進む。さらに交隣職を命じて永く不朽に伝え、また証明印記を賜う。これを要するに、両国の交際ますます厚く、誠信永遠に変わるなし。叡慮あるところ感佩なんぞ極まらん。今般、別使を差し、書翰に新印を押し、以て朝廷の誠意を表す。貴国また宜しく領可すべし」

 しかし、大院君は、書中の「皇祖、皇上、皇室、奉勅」は旧例と違う、「朝廷、朝臣」はこれまで使ったことがない、押印が違うのも旧好にもとるとケチをつけ、「峻拒して応ぜず、却て文書を送りて、之を論難した」。

 その論難の文書は残っていないのか、残念ながら蘇峰は掲げていないが、「何人が朝鮮政府と交渉しても、相手は殆ど全く頑冥不霊にして、到底手の著けらる可き様も無かった」と記している。

 はじめは意気軒昂としていた宗重正だが、明治三年十一月にはとうとう家役辞退を申し出た。その上書には、朝鮮に対するこれまでの対馬藩の情けない実態を今さらながら吐露している。

「操縦の権、常に彼に在て、動(やや)もすれば、愚弄軽侮を受け、往々其術中に陥り、ご国威を損じ候先蹤(せんしょう=先例)無にしもあらず」

 そして厳原藩知事となった今、もう朝鮮交渉の役目は御免こうむりたいと新政府に切々と訴えている。完全に泣きを入れているのだ。

 これで分かるように、現在まで続く韓国の無礼は、朝鮮併合(一九一〇年)とは関係なく、彼らの持って生まれた性質というべきか、江戸時代から一貫していたのだ。

 皇室への侮辱も変わらない。
 二〇一九年二月十一日、慰安婦問題について謝罪せよと、韓国国会の文喜相議長が天皇陛下(現・上皇)を侮辱した。
 さらに韓国政府は翌十二日、一九三二年の昭和天皇暗殺未遂事件で逮捕され死刑となった韓国人・李奉昌の「遺物」三点を文化財に登録した。

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