「征韓論」は長年の侮辱、愚弄に対する答えだった2019/07/29

 維新後、日本政府は隣国朝鮮と新しい国交関係をまだ確立できていない。

 明治五年九月、旧対馬藩が管理していた釜山の草梁公館を接収して、大日本公館と改称して外務省の管轄にした。
 するとまた、これを一方的だとして朝鮮側が反発した。

 同六年五月末、釜山の地方官庁、東莱(とんね)府が、日本人商人の貿易活動は許可していない、日本は「無法の国」だと非難し、不測の事態も起こりかねないという脅し文句まで大日本公館に掲示した。
 とうとう朝鮮問題の解決は不可能になった。

「日本も随分辛抱した。明治元年の末から、足掛け六年、正味四年の歳月は、空しく朝鮮人の為めに、侮辱せられ、愚弄せられ、遂に圧迫せられ、迫害せられ、一切の日本人は、行李を取り纏めて、釜山なる草梁公館を引き揚げねばならぬ始末に立ち至った」と蘇峰は書いている。

 六月十二日、外務省は「不慮の暴挙で国民が凌辱を受ける勢いであり、国辱に関わる」として、居留民保護のため「陸軍若干、軍艦幾隻」を派遣し、「公理公道を説いて談判に及ぶべきである」との原案を閣議に諮った。
 参議板垣退助が原案に賛成し、兵士一大隊を急派せよと言った。

 大勢は傾きかけたが、西郷隆盛はまずは使節を派遣すべき、これまでの使節は地位が低すぎた、全権を委ねられた大官を派遣せよと主張した。三条太政大臣が、使節を派遣するにせよ護衛兵を率いて軍艦に乗って行くべきだと反論した。

 西郷はさらに、大使は寸鉄も帯びず、平和の大使として大手を振って乗り込むべし、こうして他心無きを示してもなおこちらの言葉を聞かず害を加えようとするならば、正々堂々その罪を世界に明らかにして討伐しても遅くはないと主張した。しかも自らその任に当たることを求めた。

 政府の第一人者である西郷その人が自ら全権大使として特派を申し出たわけだから、蘇峰によると「朝鮮を驚かすよりも、日本を驚かし、日本を驚かすよりも、廟堂を驚かし、廟堂を驚かすよりも、其の首班たる三條を驚殺せしめた」ほどのことだったという。

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