卑弥呼についてのまとめ ― 2023/01/02
記紀の神代の物語(神話)は虚構・ファンタジーだと思われがちだが、実はそう遠い昔の話ではない。
剣や鏡が大活躍しているので分かる。
金属器の伝わった弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀)の話なのだ。
したがって、基本的には事実か事実を反映したものと考えていい。
その3世紀、北部九州では女王・卑弥呼の時代に、奈良盆地に崇神天皇という偉大な天皇が現われた。
崇神天皇はハツクニシラス天皇(すめらみこと)と呼ばれる。
初めて国を統治した天皇という意味だ。
崇神紀10年に北陸道、東海道、山陽道、山陰道にそれぞれ将軍を遣わし(四道将軍)、全国平定を進めた。同12年には戸口の調査を命じ、税を課した。
その情報を得た卑弥呼は、崇神は次は九州に攻めてくると危機感を持った。
卑弥呼は魏との同盟で崇神を牽制しようと考える。
景初三年(239年)に魏に使いを送り、翌年、親魏倭王の称号を受けた。
天皇より先に「倭王」と認められたのである。
しかし、女王国(今の水城のあたり)の南には狗奴国(くな、熊=熊襲の国)という、もう一つの脅威があって、しきりに対立してくる。
卑弥呼は最前線で指揮を執るため山門郡のあたりに移り、そこにある邪馬国を従えた。
周辺地域を併合して領土を拡大し、国名を邪馬国から邪馬大国(邪馬台国)に改めた。
戸数7万余戸を数える大国である。
大国にふさわしく、いきま、みましょう、みまわけ、なかと、という4段階もの官職を設けている。長官、局長、部長、課長といったところだろうか。
247年、ついに狗奴国と戦争になる。
卑弥呼は魏の出先である朝鮮の帯方郡に報告する。
同郡から張政らが派遣され、大夫である難升米に詔書と黄幢(黄色の軍旗)を魏から授けた。
これを魏が卑弥呼を見限って難升米を指揮官にしたとみて、その直後に卑弥呼が死んだのは失意の死おそらく自死だろうという説が有力だが、卑弥呼は自分も戦うと打って出て戦死したのかもしれない。
卑弥呼は戦地からやや離れた高良山の麓に葬られた。
卑弥呼が死んで男の王が立てられたが、国がまとまらずに内乱となり千人余りが死んだ。
このため卑弥呼の世継ぎの台与(とよ)という13歳の少女を王としたところ国はおさまった。
台与はさっそく張政らを送り届けるという手腕を見せている。
のちに景行天皇が筑紫を平定しに今の山口県まで来たときに、豊前から船でやって来て帰順を誓った神夏磯媛(かむなつそひめ)が、数十年後の成長した台与の姿だろう。
「その手下は非常に多く、一国の首長である」と紀にある。
名前に神がつくのは只者ではない。
神夏磯媛は剣、鏡、勾玉の3つを船に掲げていた。
三種の神器の初出である。
ちなみに福岡市西区の吉武高木遺跡(紀元前2世紀初め)で、最も古い三種の神器のセットが見つかっている(昨年5/19参照)。福岡発祥なのだ。
剣や鏡が大活躍しているので分かる。
金属器の伝わった弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀)の話なのだ。
したがって、基本的には事実か事実を反映したものと考えていい。
その3世紀、北部九州では女王・卑弥呼の時代に、奈良盆地に崇神天皇という偉大な天皇が現われた。
崇神天皇はハツクニシラス天皇(すめらみこと)と呼ばれる。
初めて国を統治した天皇という意味だ。
崇神紀10年に北陸道、東海道、山陽道、山陰道にそれぞれ将軍を遣わし(四道将軍)、全国平定を進めた。同12年には戸口の調査を命じ、税を課した。
その情報を得た卑弥呼は、崇神は次は九州に攻めてくると危機感を持った。
卑弥呼は魏との同盟で崇神を牽制しようと考える。
景初三年(239年)に魏に使いを送り、翌年、親魏倭王の称号を受けた。
天皇より先に「倭王」と認められたのである。
しかし、女王国(今の水城のあたり)の南には狗奴国(くな、熊=熊襲の国)という、もう一つの脅威があって、しきりに対立してくる。
卑弥呼は最前線で指揮を執るため山門郡のあたりに移り、そこにある邪馬国を従えた。
周辺地域を併合して領土を拡大し、国名を邪馬国から邪馬大国(邪馬台国)に改めた。
戸数7万余戸を数える大国である。
大国にふさわしく、いきま、みましょう、みまわけ、なかと、という4段階もの官職を設けている。長官、局長、部長、課長といったところだろうか。
247年、ついに狗奴国と戦争になる。
卑弥呼は魏の出先である朝鮮の帯方郡に報告する。
同郡から張政らが派遣され、大夫である難升米に詔書と黄幢(黄色の軍旗)を魏から授けた。
これを魏が卑弥呼を見限って難升米を指揮官にしたとみて、その直後に卑弥呼が死んだのは失意の死おそらく自死だろうという説が有力だが、卑弥呼は自分も戦うと打って出て戦死したのかもしれない。
卑弥呼は戦地からやや離れた高良山の麓に葬られた。
卑弥呼が死んで男の王が立てられたが、国がまとまらずに内乱となり千人余りが死んだ。
このため卑弥呼の世継ぎの台与(とよ)という13歳の少女を王としたところ国はおさまった。
台与はさっそく張政らを送り届けるという手腕を見せている。
のちに景行天皇が筑紫を平定しに今の山口県まで来たときに、豊前から船でやって来て帰順を誓った神夏磯媛(かむなつそひめ)が、数十年後の成長した台与の姿だろう。
「その手下は非常に多く、一国の首長である」と紀にある。
名前に神がつくのは只者ではない。
神夏磯媛は剣、鏡、勾玉の3つを船に掲げていた。
三種の神器の初出である。
ちなみに福岡市西区の吉武高木遺跡(紀元前2世紀初め)で、最も古い三種の神器のセットが見つかっている(昨年5/19参照)。福岡発祥なのだ。
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