水城の造り方2022/05/16

660年、朝鮮半島の百済が日本に救援を求めてきて、時の女帝、斉明天皇が応じた話は3月10日付に書いた。

日本は661ー663年の3年間、唐・新羅を相手に百済救援戦争を戦うわけだが、せっかく日本の全面バックアップで王子の余豊璋を王位に就けて百済を復興させたのに内部分裂。余豊璋は忠臣の鬼室福信を殺してしまう。

この混乱に乗じた唐・新羅に再び滅亡されてしまうのだ(白村江の戦い)。

馬鹿を見たのが日本。
今度は唐・新羅が日本に攻めてくるかもしれないということで、それまで海岸近くにあった出先機関の那津官家(なのつのみやけ)を現在の太宰府まで引っ込め(のちの大宰府政庁)、それを守る巨大な土塁、水城を664年に築く。

昨日は毎月第三日曜日に「水城館」で行われている水城堤散策に参加した。
西鉄の下大利から水城館まで歩いて30分かかり、開始の10時にぎりぎり間に合った。
申し込み不要のイベントだが、20~30人も参加者がいてびっくり。
グループに分かれて東堤を2時間余りじっくり見た。
土塁は御笠(みかさ)川を挟んで二つに分かれているのだ。

物足りなかったので、終わったあと一人で西堤を見に行った。
土塁断面を楽しみに行ったのだが、これがなんと本当の断面ではなく焼き物による再現だったのでがっかり。
まあ、雨風にさらされるので仕方ないか…。

築造方法の案内板は分かりやすかった(写真)。
あと、土塁の裏側(太宰府市側)が東堤より美しくて良かった。

まだ、西堤には水城ゆめ広場~西門跡があるので今度行ってみよう。