鍛冶職人の親方の古墳 ― 2022/05/26
大野城市の住宅街の只中にある善一田(ぜんいちだ)古墳公園。
発掘調査を行った27基の古墳のうち9基を自由に見学できるという、夢のような場所だ。
この中で一段と高い所にあるのが、最初に造られた18号墳だ。
6世紀後半(古墳時代後期)に築造されたという。
日本(大和政権)と新羅が反目していた時代だ。
527年、日本は新羅の脅威から伽耶(任那)を守ろうと、近江毛野(おうみのけぬ)率いる6万の兵を送った。
ところが、新羅と手を組んだ筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)が妨害して行かせない。
翌年、大和政権は援軍を送って筑紫の御井の郡(私の住む小郡市)で決戦し、磐井を斬った。
しかし、磐井の妨害で日本の派兵を免れた新羅は562年、伽耶を滅ぼす。
このあと600年、聖徳太子が新羅を討って降伏させるのだが、そんな時代だからこの18号墳近くからは新羅土器が出土している。
公的な施設だから、朝鮮半島との交流を物語るものだとしているが、そんな綺麗ごとではない。
日本にゴマをすっていろんな物を贈ってきたのだろう。
ところで、この18号墳で面白いのは、100本以上の鉄鏃や鉄鉗(かなはし=熱した鉄を挟む道具)、鉄の刀や弓矢が出てきたことだ。
当時、鍛冶職人という特別な技術者の地位はかなり高かっただろうから、そのリーダーの墓だと考えられる。
さらに興味深いのは、この場所が大野城跡に近接しているということだ。
7世紀にかけての古墳ということなので、ここに葬られた人たちは665年の大野城築造に関わった可能性は十分ある。
発掘調査を行った27基の古墳のうち9基を自由に見学できるという、夢のような場所だ。
この中で一段と高い所にあるのが、最初に造られた18号墳だ。
6世紀後半(古墳時代後期)に築造されたという。
日本(大和政権)と新羅が反目していた時代だ。
527年、日本は新羅の脅威から伽耶(任那)を守ろうと、近江毛野(おうみのけぬ)率いる6万の兵を送った。
ところが、新羅と手を組んだ筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)が妨害して行かせない。
翌年、大和政権は援軍を送って筑紫の御井の郡(私の住む小郡市)で決戦し、磐井を斬った。
しかし、磐井の妨害で日本の派兵を免れた新羅は562年、伽耶を滅ぼす。
このあと600年、聖徳太子が新羅を討って降伏させるのだが、そんな時代だからこの18号墳近くからは新羅土器が出土している。
公的な施設だから、朝鮮半島との交流を物語るものだとしているが、そんな綺麗ごとではない。
日本にゴマをすっていろんな物を贈ってきたのだろう。
ところで、この18号墳で面白いのは、100本以上の鉄鏃や鉄鉗(かなはし=熱した鉄を挟む道具)、鉄の刀や弓矢が出てきたことだ。
当時、鍛冶職人という特別な技術者の地位はかなり高かっただろうから、そのリーダーの墓だと考えられる。
さらに興味深いのは、この場所が大野城跡に近接しているということだ。
7世紀にかけての古墳ということなので、ここに葬られた人たちは665年の大野城築造に関わった可能性は十分ある。
花立山古墳からも鍛冶道具 ― 2022/05/26
筑後平野の小郡市には市内に山が一つしかない。
花立山、標高130.6メートル。
全体が前方後円墳のような形をした山だが、ここでは300基以上の古墳が確認されているという。
前回の善一田古墳と同じく、6世紀後半から7世紀にかけての古墳だ。
そしてここでも同じく鉄製品を作るための鍛冶道具が見つかっている。
現在、小郡市埋文センターでやっている「『大原道の記』と150年前の小郡」で撮影してきた。
パンフレットには、鍛冶道具が見つかって「渡来系の技術を持った人々が埋葬されていたと想定されます」と説明しているが、ちゃんちゃらおかしい。
北部九州では紀元前1世紀から鉄器の生産が始まっているのだ。
その600年後に「渡来系」もへったくれもない。
花立山、標高130.6メートル。
全体が前方後円墳のような形をした山だが、ここでは300基以上の古墳が確認されているという。
前回の善一田古墳と同じく、6世紀後半から7世紀にかけての古墳だ。
そしてここでも同じく鉄製品を作るための鍛冶道具が見つかっている。
現在、小郡市埋文センターでやっている「『大原道の記』と150年前の小郡」で撮影してきた。
パンフレットには、鍛冶道具が見つかって「渡来系の技術を持った人々が埋葬されていたと想定されます」と説明しているが、ちゃんちゃらおかしい。
北部九州では紀元前1世紀から鉄器の生産が始まっているのだ。
その600年後に「渡来系」もへったくれもない。
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