今日のひとこと ― 2021/08/21
山本夏彦
突然さかのぼるが昭和十二年十二月十三日は南京陥落の日である。南京は当時首都である。首都が陥落したら日支事変は当然終ると国民は望みかつ信じていた。昭和十二年はデパートには今と同じく物資はあふれ、ネオンは輝いていた。このことを言うものがないから何度でも言う。
進歩的文化人は昭和六年の満洲事変から敗戦までの十五年間はまっ暗だったというが、そりゃひと握りの左翼は警察に追われてまっ暗だったろう。けれども国民全員は共産党でもシンパでも何でもない。連戦連勝に酔って提灯行列していた。これを「世間知らずの高枕」という。いつの時代でも人はどたん場まで高枕なのである。一寸さきはヤミだと知った上で枕を高くして寝ているのである。今もまたそうである。後世はこれをまっ暗だというであろう。
~『「夏彦の写真コラム」傑作選1』(新潮文庫)のうち、「週刊新潮」平成3年9月12日号
林芙美子も南京陥落を聞いて、意気揚々と現地へ向かった。
12月28日、上海に到着。
このとき尾崎秀実も上海に来ていた。
東京朝日新聞の東亜問題調査会にいたから、朝日の上海支局を拠点に情報収集していたのだろう。
林芙美子は毎日新聞と行動を共にしていたから、この時点では尾崎に会っていない。
しかし芙美子は南京取材を終えて昭和13年1月4日に上海に戻ると1週間ほど滞在しているから、その間に現地の事情通である尾崎と会って話をした可能性はある。
一方、石川達三も南京取材で1月5日に上海に到着。8日に南京へ行き、15日上海に戻る。20日に上海を発つまでの間に、尾崎秀実から『生きている兵隊』のネタとなる、日本軍の残虐行為の数々を書くよう勧められた(そそのかされた)というのが私の見立てである。
詳しくは拙著『花に風 林芙美子の生涯』と『林芙美子が見た大東亜戦争』をご参照ください。
前者は尾崎秀実、後者は南京大虐殺という二大タブーに真っ向から「おかしいものはおかしい」と立論しています。
突然さかのぼるが昭和十二年十二月十三日は南京陥落の日である。南京は当時首都である。首都が陥落したら日支事変は当然終ると国民は望みかつ信じていた。昭和十二年はデパートには今と同じく物資はあふれ、ネオンは輝いていた。このことを言うものがないから何度でも言う。
進歩的文化人は昭和六年の満洲事変から敗戦までの十五年間はまっ暗だったというが、そりゃひと握りの左翼は警察に追われてまっ暗だったろう。けれども国民全員は共産党でもシンパでも何でもない。連戦連勝に酔って提灯行列していた。これを「世間知らずの高枕」という。いつの時代でも人はどたん場まで高枕なのである。一寸さきはヤミだと知った上で枕を高くして寝ているのである。今もまたそうである。後世はこれをまっ暗だというであろう。
~『「夏彦の写真コラム」傑作選1』(新潮文庫)のうち、「週刊新潮」平成3年9月12日号
林芙美子も南京陥落を聞いて、意気揚々と現地へ向かった。
12月28日、上海に到着。
このとき尾崎秀実も上海に来ていた。
東京朝日新聞の東亜問題調査会にいたから、朝日の上海支局を拠点に情報収集していたのだろう。
林芙美子は毎日新聞と行動を共にしていたから、この時点では尾崎に会っていない。
しかし芙美子は南京取材を終えて昭和13年1月4日に上海に戻ると1週間ほど滞在しているから、その間に現地の事情通である尾崎と会って話をした可能性はある。
一方、石川達三も南京取材で1月5日に上海に到着。8日に南京へ行き、15日上海に戻る。20日に上海を発つまでの間に、尾崎秀実から『生きている兵隊』のネタとなる、日本軍の残虐行為の数々を書くよう勧められた(そそのかされた)というのが私の見立てである。
詳しくは拙著『花に風 林芙美子の生涯』と『林芙美子が見た大東亜戦争』をご参照ください。
前者は尾崎秀実、後者は南京大虐殺という二大タブーに真っ向から「おかしいものはおかしい」と立論しています。
今日のひとこと ― 2021/08/21
徳岡孝夫
「私もさきがけの代表幹事をさせて頂くものとして、深く反省させて頂いております」に始まり、十分間に十数回「させて頂く」を繰り返した[鳩山]由紀夫の記者会見は異様で、口の悪い男は「ヤツは寝室でもパンツを下ろして女房に、「ではさせて頂きます」と挨拶しているんじゃないか」と評した。コラムニストが一斉に取り上げたのは、その言葉遣いが鳩山の、ひいては民主党の性格を暗示したからであろう。
~1996年『諸君!』11月号「紳士と淑女」を、石井英夫『コラムばか一代』から孫引き
「させて頂く」を連発した始まりは石原伸晃だったと記憶しているが、鳩山由紀夫もさもありなん。
いずれにしろ、政界からテレビを通じて各界・一般人にまで、日本中で「させて頂く」が氾濫しだしてから、もう25年もたつのだ。
うんざり。
「私もさきがけの代表幹事をさせて頂くものとして、深く反省させて頂いております」に始まり、十分間に十数回「させて頂く」を繰り返した[鳩山]由紀夫の記者会見は異様で、口の悪い男は「ヤツは寝室でもパンツを下ろして女房に、「ではさせて頂きます」と挨拶しているんじゃないか」と評した。コラムニストが一斉に取り上げたのは、その言葉遣いが鳩山の、ひいては民主党の性格を暗示したからであろう。
~1996年『諸君!』11月号「紳士と淑女」を、石井英夫『コラムばか一代』から孫引き
「させて頂く」を連発した始まりは石原伸晃だったと記憶しているが、鳩山由紀夫もさもありなん。
いずれにしろ、政界からテレビを通じて各界・一般人にまで、日本中で「させて頂く」が氾濫しだしてから、もう25年もたつのだ。
うんざり。
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