憲法で見落とされている視点②2022/02/23

 昭和二十年八月三十日に神奈川県の厚木飛行場に降り立ち、皇居前の第一生命ビルをGHQ本部として執務を開始したマッカーサーは、九月二十七日、米国大使館を訪れた昭和天皇と会見した。

 このときの会見内容は、いろいろな本が『マッカーサー回想記』を引用しているが、ここでは豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)を使わせてもらう。

「私が米国製のタバコを差出すと、天皇は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手がふるえているのに気がついた。……天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかっていた」「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ」「ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。……けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである」

 マッカーサーは現実に日本軍と戦ってきた将軍だ。日米開戦当初にフィリピンで敗れ、コレヒドールからオーストラリアに脱出するという〝屈辱〟を味わっているので、天皇もきっと敗北の屈辱を感じているに違いないと考えたのだろう。その屈辱には共感するだけに、言い訳を滔々と述べられてはたまらないという〝不安〟を感じていた。

「しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。『私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためおたずねした』。私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでゆり動かした」

 骨の髄まで震えたというのは大げさではない。全責任を引き受けた天皇に魂を揺さぶられたマッカーサーは、天皇制の存続を心に決めた。もちろん、この天皇の名の下に玉砕、特攻という命知らずの戦いをした日本軍の勇猛さを誰よりも知るマッカーサーは、とても天皇制を廃して日本を治めることなどできないと考えたのも確かだろう。

 しかし、状況はよくなかった。米本国ワシントンからは、天皇制の取り扱いをめぐって連合国相互間、さらにアメリカ政府部内での議論がまとまらないという声が聞こえていた。

 マッカーサーは昭和二十一年一月二十五日、アイゼンハワー陸軍参謀総長(のち大統領)宛てに次の勧告をおこなった。

「可能な限りの調査から、私は天皇の行為はほとんどが、大臣たちの自動的責任であるとの強い印象を受けた。もし天皇が戦犯として裁かれるなら占領計画の重要な変更が必要となり、そのための準備が必要である。天皇告発は日本人に大きな衝撃を与え、その効果ははかり知れない。天皇は日本国民の統合の象徴(the Symbol of the unity of the people)であり、天皇を抹殺すれば日本国は崩壊するであろう。実際、すべての日本人は天皇を国家元首として崇拝しており、ポツダム宣言は天皇を存続させることを保障したと信じている」(江藤淳編『占領史録3 憲法制定経過』。同書によるとこの勧告は、ワシントンにおける戦犯問題を含む天皇制論議に決定的な影響を与えたという。

 連合国十一カ国による極東委員会の発足が二月二十六日に迫っていた。天皇制を存続するというマッカーサーの決意も、ソ連やオーストラリアの拒否権に遭ってはどうすることもできなくなる。

 マッカーサーは日本政府の自主的な憲法改正案を待つという方針を転換し、二月三日、総司令部で作成するようホイットニー民政局長に必須要件三点を示した(マッカーサー・ノート)。
①天皇は、国の元首の地位にある。皇位は世襲される。
②国家主権の発動としての戦争は、廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する。
③日本の封建制度は廃止される。

 つまり、「天皇を守るために急げ!」ということにほかならない。②の戦争放棄については、「幣原[喜重郎首相]起源説、マッカーサー起源説のほか、天皇制護持と戦争放棄を取り引きした結果であるとする合作説、さらに発想自体は幣原に由来するが、これを新憲法に組み入れるという決断はマッカーサーが行ったとする説などが流布しているが、いずれも決定的なエヴィデンスに乏しく、推測の域を出ていない」(前掲『占領史録3』)が、筆者は合作説に近い。すなわち、天皇制護持に反対しそうなソ連等を封じるため、戦争放棄しかも自衛権まで放棄という常識ではあり得ないウルトラCを使ったのではないかと思う。

 ホイットニーは翌四日、民政局のスタッフ二十五人を集めて、十二日までに憲法草案を作成するよう指示した。そして十日には成案ができてしまった。修正を経て、十二日にはマッカーサーが承認。十三日に日本側に提示された。
 三月六日、日本政府は憲法改正草案要綱を発表し、マッカーサーは支持を表明した。出し抜かれた極東委員会は抵抗するものの、マッカーサーは既成事実として昭和二十一年十一月三日の新憲法公布まで強硬に押し通した。

 現行憲法を批判するときによく「一週間で作った」という常套句があるが、急ぐべき事情があったのだ。九条などはいつでも変えられる(変えられていないが)が、天皇をもし廃していたら、いったんなくした天皇制を復活するのは到底不可能だっただろう。これだけはマッカーサーに感謝したい。

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