魏志東夷伝を通して読んでみた2023/01/04

いわゆる魏志倭人伝は、「魏書」の中の「烏丸鮮卑東夷伝」の最後にある「倭人条」のことである。

森浩一さんが倭人伝しか読まない人に苦言を呈しているので、東夷伝を通して読んでみた。
ちくま学芸文庫の『正史 三国志4』である。
訳書はこれしか見当たらなかった。

森さんの言う通り、面白かった!

2世紀後半、朝鮮半島では韓と濊(わい)の力が強くなって、後漢の楽浪郡では制することができなくなった。

後漢末の建安年間(196-220)、公孫康が楽浪郡の南部を分割して帯方郡をつくって、韓と濊を討った。
以後、倭と韓は帯方郡(公孫氏)の支配を受けることになった。
(倭国は討たれたわけではないので、おそらく朝鮮南岸の倭人のことだろう)

後漢から魏に代わって、2代皇帝の明帝は景初年間(237-239)に帯方・楽浪の両郡に秘かに太守を送って平定させた。

その後、韓の諸国の首長に邑君の印綬を授け、それに次ぐ者たちには邑長の位号を授けた。

景初といえば。

卑弥呼が景初3年に魏に使節を送り、翌年、親魏倭王の称号を受けている。
これはつまり、帯方郡の太守が公孫氏から魏の皇帝に移ったことへの表敬だったわけだ。

こうした当時の国際情勢を踏まえないと、真に倭人伝は理解できないということだ。

今月下旬に九州国立博物館で始まる「加耶展」は魏志倭人伝より少し後の時代(古墳時代)だが、前提となる倭人伝についても理解が深まるものと期待している。