吉野ヶ里遺跡北墳丘墓①2023/03/06

古墳とは何か。

墳丘をもった墓。

とすれば、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は、古墳としては日本最古となる。

こんな記述を読んで目から鱗が落ちた。

吉野ケ里といえば弥生時代、古墳といえばもちろん古墳時代、全く別物として考えていたが、言われてみれば確かにそうだ。

墳丘墓って何、というわけで吉野ヶ里遺跡を訪ねた。

吉野ヶ里遺跡というと、一般には復元された建物のイメージが強いだろう。
南内郭に20棟、北内郭に9棟、倉と市のエリアには31棟もの建物が復元されている。
それが吉野ヶ里遺跡を紹介する際の写真に使われるのだから、このイメージを持ってしまうのは仕方がない。

私も何度も来ているのだが、北墳丘墓についてはさっと表面的に眺めただけのように思う。

写真右の入り口から北墳丘墓内に入れる。
発掘されたときの遺構や甕棺を見学できるのだ。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓②2023/03/06

本来は展示施設内の遺構や甕棺をお見せするのが先だろうが、早速、墳丘墓とは何か、という本題に入りたい。

電灯の光が反射して見えにくいが、弥生の墳丘墓は実にいろいろな形があることが分かる。

この中では、一昨日書いた岡山県の楯築遺跡がひときわ大きく、吉野ヶ里はそれに次ぐ。

こうした試行錯誤の末に、前方後円墳に収斂されていくわけだ。
やはり大和王権の力は強力だ。

発見されたばかりのうきは市の西ノ城古墳も、研究が進めば弥生の墳丘墓ということに訂正されるかもしれない。

糸島の平原遺跡も、ひところは平原弥生古墳と呼ばれていたようだから。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓③2023/03/06

現在の立派な墳丘は、築造当時のものではない。

クリックして拡大してもらえば、写真右に「発掘時の地形」と「復元時の墳丘形状」とあるのが分かるでしょう。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓④2023/03/06

どうして北墳丘墓が、歴代の首長など高い身分の人たちのものと考えられるのか、よく説明されている。

甕棺墓列は以前は自由に歩き回れたが、今は公開していないようだ。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⑤2023/03/06

オベリスクかっ⁉

北墳丘墓の南側。
以前はなかったはず。

「祖霊の宿る柱」だという。

柱穴が一つ見つかったからと言って、そこまで言い切っていいのかなーとは思うが。

案内板より、ホームページの説明のほうが良い。

「立柱の穴跡は径1.4~1.8m、深さ1.1mでした。このことから、立柱の径は50㎝、地上部は概ね7mであったと推定されました。諏訪大社の御柱等の民族事例を参考に、彫刻のないまっすぐな柱として復元しました。」

なるほど。御柱を参考にしたのはいいかもしれない。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⑥2023/03/06

この墓道の案内も最近までなかった。

というのも、昨年10月9日、発掘体験の場所に行くのに通ったから知っているのだ。

今、吉野ヶ里では、北墳丘墓近くの神社が立ち退いたことでその跡地を発掘調査しているが、その発掘体験ができるというので喜んで申し込み、やって来たものの現場が分からず、さ迷った揚げ句、えーいここを行っちゃえと駆け下りたのが、ここだったのだ。
まさか墓道だったとはね。

その日は雨で、発掘体験は私たちの順番となる直前で中止となった…。

東墳丘墓にも行こう!2023/03/06

吉野ヶ里歴史公園に入る時もらったマップ。

そこに「東墳丘墓」があるのに気づいた。これは…?

東口建物の南、大駐車場の南西角である。

係員に聞いてみると、皆知らないらしく、だいぶ時間がかかった。
ようやく分かったものの、「行かれても、そんな…」と何もないという口ぶり。
公園の人もボランティアもろくに行ったことがないらしい。

北墳丘墓を見て、そのあと弥生くらし館での講座を聞いての帰り、寄ってみた。

説明によると、どうやら「東墳丘墓」はマスコミが勝手に付けたと言わんばかり。だから、公園の人たちも舐めてるわけか。

しかし、墳丘を目にした途端、これは馬鹿にしたもんじゃない‼と思った。

そして墳頂に立つと、パワースポット的な〝何か〟を感じた。
訪れる人が少ないだけに、甕棺の死者たちの念がまだ衰えていないのだ。
吉野ヶ里歴史公園に行ったらぜひ訪ねてみてほしい。