最後の最後まで嫌がらせ2017/08/27

2008年8月28日、南日本新聞社を早期退職した。

日付が中途半端なのは、末広がりの「八」を並べたかったのと、
ものの本に退職は月末より一日でも前のほうが得するとあったからだ。

ウソだった。
8月残り3日分の健康保険料やら何やらを後で取られ、大変な思いをした。これから退職、転職する人は気をつけたほうがいい。

さて、未消化の年休・代休が百六十六日もあった。

かつては持ち越した年休は買い上げる制度があったが、廃止されて、溜まった年休は順次無効(放棄)となったが、それでもこれだけ溜まっていたのである。

全く休まずに会社のために尽くしたせいだ。

私は、全部とは言わないが、せめて三分の一か四分の一でも消化させてほしいと願い出た。
当然の権利である。全部消化してもいいくらいだ。

こちらは好きで辞めるのではない。約束通り、都城に行っていれば辞めることもなかった。

ところが、人事部長が年休代休取得を頑強に拒否した。
ショックだったのは、早稲田大学の鹿児島稲門会でいつも顔を合わせていた後輩だったことだ。

言い分は早期退職は優遇されるのだからさらに優遇するわけにはいかない、というのである。

恐らく役員に上がっていた蟻川が、私に少しでも得をさせてはならじと人事部長に厳しく命令したのだろう。

会社に一分一秒もいたくないという心理状態になった。
会社で週に一度ほど心理カウンセラー的なことをしていた医師の病院を訪れて診てもらった。
鬱症状で二、三か月通院の必要があるとの診断だった。
その診断書を部長に提出した結果、そのまま退職まで休むことになった。

だから、誰にも別れの挨拶をしていないのは痛恨だが、こんな状態では挨拶どころではないと分かっていただけるかと思う。

 そして、さらにひどい目に遭わされる。会社が早期退職者にいかに冷たいか。

 共に辞めた同期がいた。
 7月入社の〝真の同期〟3人の1人である。
 1人はすでに総務から事件記者に異動した20年前に辞めているので、これですべていなくなる。

 退職者説明会が開かれ、休職中の私は久しぶりに会社に出てきた。

私は副部長を既に七年やっていたが、同期は最後までヒラだったので、どれくらい退職金が違うのか書類を覗き込んできた。
かなり差があると思っていたらしい。
ところが、百万ほどしか変わらず、目を丸くして驚いていた。

 それもそのはず。愕然とした。
局付の副部長待遇となっている。連絡がなかったので知らなかった。
副部長〈待遇〉というのはクセモノで、職制ではなくヒラである。

ひと言の連絡もなく勝手に降格されていたのだ!

辞令一枚送ってこなかった。

〈局付〉という無任所は仕方がない。
しかし、正式な病気休職である。あえて職級を下げる必要は何もない。退職金は、会社への貢献度つまりは職級で査定される。それを下げるためだ。
 これも蟻川のアイデアに違いあるまい。

 説明会の資料。
 今後しばらく指針として何度も引っ張り出すに違いない。
 それが裏紙だった。
 リスペクトが何もなかった。

存在しないはずの左翼という亡霊2017/08/27

もう、新社屋しか知らない若い社員も増えてきているだろう。
彼らは不便も不便と思わないかもしれない。
しかし、誰かがこのトンデモナイ移転劇を書き残さねばならない。
他に誰かが書いてくれれば私が書くことはなかった。
私家版ではあるが、書き残すことができてほっとしている。
南日本新聞には健全な保守になってほしい。そして日本一の地方紙になってほしいのだ。

易居町の社屋は8・6水害でも浸からなかった。住民や、いわゆる帰宅難民が避難してきたほどだ。危機管理上、すぐれた場所だった。
何も急ぐ必要はなかった。というのも、「最良の選択である」隣接地の鹿児島税務署の土地を取得交渉中だったからだ。税務署側も移転を計画していた。
実際、皮肉なことに平成十三年(二〇〇一)、南日本新聞社と同じ年に移転している。

ところが、突然、与次郎ケ浜に変更された。誰の頭の中にもなかった土地である。そして、誰もが嘲笑う土地である。
実に不透明だ。あまりに拙速なのだ。

目高社長は前月の八月に次期経営三カ年計画で初めて、移転を選択肢に入れた新社屋建設の考えを発表したばかり。
そこには「隣接地(つまり鹿児島税務署)を含めた現在地か新県庁近隣にしぼって検討する」とあったにもかかわらず、移転そのものも場所も何のコンセンサスも得ることなく、九月には与次郎一丁目の用地取得交渉に入ったのだ。

役員会によると「結論が出てから用地を物色しても、適地を取得できる可能性は薄い。他にさらなる適地が見つかれば、交換することも可能。どこか一カ所でも候補地を確保していないことには、先へ進まない」と苦しい言い訳をしたが、引っ張りだこの土地ではないのだ。むしろ売れ残っていた土地だ。新県庁にも大して近くない。
換地にするにしては高い。三十一億円以上。のちに買い足した分を入れると四十五億円以上。

一号用地(谷山二丁目)に購入し、遊ばせていた土地に仮社屋を建てて、税務署の土地には手付けを打って確保しておき、同署の移転とともに社屋を建て替えればよかった。誰が考えても妥当な案である。

初めに与次郎ありき。
何らかの理由で与次郎のガンタレ土地を購入しなければならない理由があったのではないか。購入相手はパチンコの第五富士。
与次郎移転以来、南日本は失敗を取り繕うために金をドブに流し続けている。
そして誰も責任を取らない。批判もしない。


 一九八三年、島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』を書いたころ、左翼という言葉自体がもう、風前の灯だった。「左翼」は「サヨク」となり、やがて死語になる……そんな時代の流れだった。

 その後八九年のベルリンの壁崩壊、九一年のソ連邦崩壊で、イデオロギーの時代はついに終わった。我々は一つの大国がなくなるという稀有の事態を目撃した。共産主義・社会主義陣営は完全に敗北した。人を右、左で分ける時代は終わったのだ。
 すると、レーゾン・デートル(存在意義)を失った反体制派の言論人、文化人、政治家たちはどうしたか。

 一九九二―九三年の政治漫画、弘兼憲史『加治隆介の議』(講談社漫画文庫)第二巻三三九頁に、次のような与党の先輩政治家と主人公との会話がある。

「社会主義というイデオロギーが崩壊してからは与野党間の明確な対立軸がなくなった。しかし、なくなったとはいえ、野党――特に社会平和党の古手はコチコチの左派だ。頭がカタイというより今ここで自分達の姿勢をくずすと今までの自分の全人生を否定することになる。それが怖いんだ」
「その通りだと思います」
「イデオロギーがなくなっても依然として社会平和党の左派とは対立する軸が何本か残っている。何かわかるか?」
「まず護憲か改憲かという自衛隊のあり方を問う問題……それから対韓国問題、原子力発電の是非、消費税……あと今後の日本の外交上の姿勢でアメリカ重視型かそれともアジア外交を中心にするのかといったところも対立軸でしょうか」

 加治隆介は鹿児島の政治家。鹿児島の人にはぜひ読んでほしい漫画だ。
 この会話が描かれてから二十三年以上。
 対立軸は大して変わっていない。左派は新たな拠り所を見いだせていないのだ。
 その代わり、尖鋭化させている。

 日下公人編『誰も書かなかった「反日」地方紙の正体』(平成二十三年、産経新聞出版)という本がある。
 三百ページ強の本は冒頭、八木秀次(高崎経済大教授)と南日本新聞記者とのエピソードから始まる。
 八木氏は記者を名指しして「まんまと騙された」とまで書く。

 文脈が分かりにくい点もあるが、要するに学校現場における男女同室着替えについて、話してもいないことを新聞のコラムに書かれたと批判している。その結果、記事を全国のフェミニストたちに利用された。南日本の記者を「ジェンダーフリーというマルクス主義フェミニズムの信奉者」だと極めつけている。

 このT記者はよく知っている。ひと回り以上は下だから、40代後半だ。
 氏が言っていることが本当なら困ったことである。私もフェミニズムをかねがね疑問に思っているからだ。

ジェンダーフリー。フェミニズム。
フェミニストは大学に深く根を張っている。

私は退職後、京都造形芸術大学の文芸コースに学んだが、創作に「女の子」と書いてたしなめられ、仰天した。
そんな言い草は聞いたこともなかったからだ。

テレビはオカマやフェミニスト、進歩的文化人という名の反日左派評論家・ジャーナリストに乗っ取られている。
いわば公序良俗の破壊者だらけだ。こんな国は世界にないのではないか。エジプト人の女性タレントが、日本は女尊男卑だと批判しているのも無理はない。
テレビ局は日本をどこに導こうとしているのか、全く無責任だ。

知人から「南」の主張はひどい、といわれることも増えてきた。
非常に単純化していうと、南日本新聞しか読まない人がほとんどだった(購読率90%)ので、これまで鹿児島の言論は南日本新聞がほぼ唯一絶対だった。
だから先に挙げた九五年のような紙面を読まされても、苦情は出なかった。

読者は、南日本に書いてあることはすべて正しいと信じ込んでいた(交通事故の取り扱いに疑いを持つ人がいる程度のこと)が、ネット時代になっていろんな言論が簡単に手に入るようになった。
どうも南日本の主張は偏っている。極端すぎるというのだ。

南日本新聞は共同通信の出稿メモと、七時のNHKニュースのラインアップで新聞を作っている。
さらに驚くべきことに整理記者の端末はインターネットと繋がっているため朝日新聞の見出しが見られる。

私が編集部デスクになりたての頃、部員に見出しを注意すると、「朝日はそうしてますよ」と言い返されて絶句した。
制作から移ってきて記者経験のない男だったが(そこにはまた別の問題がある)、目の前にある原稿ではなくてネット情報を信じる。
原稿に書かれていないことは見出しに取れない大原則を知らないのだ。

南日本の記者には本当の極左の活動家もいた。
団塊世代の退場と共にいなくなるかと思っていたが、T記者のような下の世代にも根強く生き残っている。

この世から消え去ろうとしていた左派は、新たな拠り所、中国韓国あるいは沖縄の「反日」に目を向けた。
これを焚きつけて国民に罪悪感を植え付け、取り返しのつかないところまで煽って世界に向けて炎上させた。一方では、フェミニズムで公序良俗を破壊しようとしている。

「反日」とはすなわち日本の弱体化に他ならない。「戦争防止法案」を「戦争法案」と呼んで日本を無防備にする。フェミニズムで日本人の健全な人格形成まで妨げている。

 こうした人たちをネット上では「左翼」と指弾するようになり、この古臭い言葉が復権した。逆に、中韓両国やマスコミを憎悪し罵る人々は「ネット右翼」と呼ばれるようになった。二十一世紀に左右対立などという古臭い亡霊が復活するとは!

 二〇一六参院選そして都知事選以降、国益か反日か、決着をつける激しい戦いの火蓋は切られている。
 憲法九条改正のカウントダウンは始まった。時代は大きな転換期に入ろうとしている。
 少なくとも設立後六十年以上たつ自衛隊を合憲にしないとおかしいではないか。転換期というより国家正常化のときだ。
 右か左かではない。もう「左」など存在しないのだ。人を分けるのは、反日か愛国か、だ。
 南日本新聞も旗幟を鮮明にする時が来ている。どうせ、模様眺め、横並びを決め込んでいるのだろうが。

共同通信を出ても青山繁晴氏のように左に偏らない人もいる。
「右でも左でもない、真っ直ぐなんです」
たったひとつの日本で分かれて争うことを克服し、これまでの利権も私利私欲もみな超えて、ジャパンオリジナルの民主主義の国造りを一緒にやりましょう――。

21日から30回にわたり続けてきた連載「もう一度、餃子楼のカツ丼が食べたい」は、易居町1番2号への未練を、名山町にあった餃子楼の〝日本一のカツ丼〟に託した惜別だ。

易居町1番2号の旧社屋は鹿児島市の「SOHOかごしま」のビルになっている。ここに事務所を借り、南日本新聞を創業の地に戻す運動をやりたいとさえ思う。

〝南日本新聞の9・11〟強引な与次郎移転は絶対に許せない。

しかし今、最も心配なのは南日本新聞の論調である。

維新の地、鹿児島らしい、健全な保守主義を掲げよ!!

今後も勝手に監視し、紙面審査させてもらう。

誰がシナリオを描いたのか2017/08/27

 問題は、誰が与次郎移転というトンでもないシナリオを描いたのか、ということだ。
 これが実は全く分かっていない。

 前段として鹿児島県庁舎移転があるのは間違いない。

 平成元年(1989)2月、金丸三郎、鎌田要人に続き、三代続けて自治事務次官から、土屋佳照氏が鹿児島県知事に当選した。
 翌3月には県議会に県庁舎整備問題特別委員会が設置され、翌2年3月、同特別委は鹿児島市鴨池新町への県庁舎移転を可決する。
 同4年(1992)8月、南日本新聞社の目高社長(仮名)は次期経営三カ年計画で初めて、新社屋建設を「隣接地(つまり鹿児島税務署)を含めた現在地か新県庁近隣にしぼって検討する」と発表した。翌9月には与次郎一丁目の用地を取得する方針を経営協議会で明らかにした。

 県庁舎建設に当たる企業体の中心は大林組。5年9月に着工し、8年6月に完成する。
 総事業費六百四十七億円。都道府県庁舎では、新宿にひときわ高く聳える、あの東京都庁舎に次ぐ予算だという。

 9年(1997)2月、南日本新聞は新本社建設を大林組に発注する。同社は旧社屋も手がけ、南日本とは深い関係がある。

 とはいえ、二百億円規模の大事業をやるのに、コンペをやらなかった。
 同じ地方マスコミでも、二〇一五年、広島テレビ放送は移転新築する新社屋の設計・施工をコンペで決定している。

 南日本が初めから選択の余地なく大林組に決定していたのは確かだ。

 ゼネコンというものは、どうもベールに包まれている。
 新書で「ゼネコン」なんて、ありそうなのに、ない。出版社の人に教えてあげたい。
 ミステリ小説で、池井戸潤『鉄の骨』、相場英雄『みちのく麺食い記者』シリーズ第一弾などを読んだが、いまひとつ実態は分からない。

 日本社会ではタブーなのか。
 だから、めったなことを言って消されては困るので、これはあくまで、ただの冗談だが、新県庁舎を手がけることになったO社が、目高社長に「南日本新聞もこの際、移転してはどうですか」と持ちかけたのではないか。
 なーんて、妄想したりするのだ。
 権威に弱い新聞社。県庁が移転するといえば、浮足立って付いていく。

 南日本はなんと新社屋移転の一切の事務をO社に丸投げしている。
 請負契約は注文者(新聞社)と請負人(O社)との双務契約だ。が、請負人に注文内容も決めさせるも同然。費用のフリーハンドを与えたようなものだ。
 南日本は経営の素人集団。赤子の手を捻るようなものだ。建設費が当初の予定より高騰しても取締役は文句を言わない。見事にカモにされたのではないか。

 大型工事の請負契約でリベートなんてものがあるのかどうか全く知らないので口を慎まなければならないが、二百億円の事業なら1%のリベートでも2億円である。これももちろん、単なる例えばの話である。

 ゼネコンに詳しい方がいれば、教えてもらいたい。

※前回で連載完結のはずが、追加しました。今後も思いついたら、あるかもしれません。