自分史の手引き(2) ― 2011/03/09
自伝と似たものに「半生記」というのがあります。
Yahoo!百科事典や電子辞書の広辞苑で引いてみると、自伝は「自分で書いた自分自身の伝記。自叙伝」とありますが、「半生記」は定義が出てきません。いずれにしろ、両者に大きな違いはなく、ほぼ同じ意味だと考えていいでしょう。
あえて言えば、自伝には「人生の総決算」的なちょっと構えた大げさな響きがあり、半生記は「人生の半分が過ぎたので振り返ってみた」的なもう少し肩の力を抜いた経過報告という印象でしょうか。
松本清張と藤沢周平という、二人の大人気作家に『半生の記』という全く同じタイトルの本があります(松本清張は新潮文庫、藤沢周平は文春文庫)。
私はこの二人の人気作家のファンというわけではありません。しかしながら、この『半生の記』はどちらも抜群に面白い。ぜひともオススメです。
前回取り上げた福沢諭吉と宮本常一の自伝は割とオーソドックスな書き方でしたが、さすがに作家だけに文学的な表現に優れており、そうした書き方が好きな人には参考になります。(それだけに下手に真似するのは危険とも言えますが)
しかも二人とも小説家として芽が出るのが遅かったために、それまでは一般庶民と変わらない生活、というか、むしろそれ以上に苦労しています。
裏表紙の要約を引用すると、「金も学問も希望すらもなく、ひたすら貧困とたたかっていた孤独な青年松本清張。印刷所の版下工としてインクにまみれ、新聞社に勤めてからも箒(ほうき)の仲買人までしながら一家八人の生活維持に苦しんだ」――。
そういう点では、「私の人生なんか特に書いて残す価値なんてありません」と思っている人にも参考になるのではないでしょうか。
例によって、松本清張『半生の記』の目次を見てみましょう。
父の故郷
白い絵本
臭う町
途上
見習い時代
彷徨
暗い活字
山路
紙の塵
朝鮮での風景
終戦前後
鵲(かささぎ)
焚火と山の町
針金と竹
泥砂
絵具
こうして見出しを見ているだけでも、だいぶ文学的であるのがお分かりでしょう。
余談ですが、私はこの中の「鵲」で佐賀平野にカササギが多いことを知って合点がいきました。ここ小郡は佐賀平野とひとつながりで、カササギがとても多いのです。このパンダのような黒と白のカラスは、鹿児島では全く見たことがありませんでした。
藤沢周平の方は目次がありませんので、小見出しを拾ってみます。
自己確認
黄金村
横座のこと
母の家系
小さな罪悪感
「討匪行」
学校ぎらい
吃音矯正学院
敗戦まで
湯田川中学校
療養所・林間荘
回り道
死と再生
これだけでもいかに苦労の多い半生だったかが分かるでしょう。
藤沢周平の方は詳細な年譜も付いていますので、これもまた参考になりそうです。
Yahoo!百科事典や電子辞書の広辞苑で引いてみると、自伝は「自分で書いた自分自身の伝記。自叙伝」とありますが、「半生記」は定義が出てきません。いずれにしろ、両者に大きな違いはなく、ほぼ同じ意味だと考えていいでしょう。
あえて言えば、自伝には「人生の総決算」的なちょっと構えた大げさな響きがあり、半生記は「人生の半分が過ぎたので振り返ってみた」的なもう少し肩の力を抜いた経過報告という印象でしょうか。
松本清張と藤沢周平という、二人の大人気作家に『半生の記』という全く同じタイトルの本があります(松本清張は新潮文庫、藤沢周平は文春文庫)。
私はこの二人の人気作家のファンというわけではありません。しかしながら、この『半生の記』はどちらも抜群に面白い。ぜひともオススメです。
前回取り上げた福沢諭吉と宮本常一の自伝は割とオーソドックスな書き方でしたが、さすがに作家だけに文学的な表現に優れており、そうした書き方が好きな人には参考になります。(それだけに下手に真似するのは危険とも言えますが)
しかも二人とも小説家として芽が出るのが遅かったために、それまでは一般庶民と変わらない生活、というか、むしろそれ以上に苦労しています。
裏表紙の要約を引用すると、「金も学問も希望すらもなく、ひたすら貧困とたたかっていた孤独な青年松本清張。印刷所の版下工としてインクにまみれ、新聞社に勤めてからも箒(ほうき)の仲買人までしながら一家八人の生活維持に苦しんだ」――。
そういう点では、「私の人生なんか特に書いて残す価値なんてありません」と思っている人にも参考になるのではないでしょうか。
例によって、松本清張『半生の記』の目次を見てみましょう。
父の故郷
白い絵本
臭う町
途上
見習い時代
彷徨
暗い活字
山路
紙の塵
朝鮮での風景
終戦前後
鵲(かささぎ)
焚火と山の町
針金と竹
泥砂
絵具
こうして見出しを見ているだけでも、だいぶ文学的であるのがお分かりでしょう。
余談ですが、私はこの中の「鵲」で佐賀平野にカササギが多いことを知って合点がいきました。ここ小郡は佐賀平野とひとつながりで、カササギがとても多いのです。このパンダのような黒と白のカラスは、鹿児島では全く見たことがありませんでした。
藤沢周平の方は目次がありませんので、小見出しを拾ってみます。
自己確認
黄金村
横座のこと
母の家系
小さな罪悪感
「討匪行」
学校ぎらい
吃音矯正学院
敗戦まで
湯田川中学校
療養所・林間荘
回り道
死と再生
これだけでもいかに苦労の多い半生だったかが分かるでしょう。
藤沢周平の方は詳細な年譜も付いていますので、これもまた参考になりそうです。
facebook の「気持ち悪さ」 ― 2011/03/09
数日前に、facebook の「知り合いかも?」に大学時代の友人が表示されて、びっくりした。
ここで、facebook を知らない人のために(私も1月ごろ始めたばかりでよくわからないが)説明すると、facebook に登録すると自分のプロフィール(出身地、学歴、趣味など、詳細さはそれぞれでよい)を記したページを持つ。
そうしたデータをもとに友人知人が登録していないか検索し、人の輪を広げていくというのが facebook の最大の特徴だ(と思う)。
実名だからこそ、現実では連絡の取りようがない旧知の人が見つかる可能性があるのだ。
それはいい。自分で知り合いを捜すのはわかる。
それとは別に、「知り合いかも?」といって、facebook側がその人の知り合いの可能性のある人を2人ずつ示してくれる窓がある。
そこに、大学時代の友人が表示されたのだ。
彼とはデータ的には「早稲田」という共通点しか見あたらない(これは他にも数え切れないほどたくさんいる)。しかも彼はその日登録したばかりだった。
なんで知り合いとわかったんだ?
彼にそうメッセージを送ると、彼は仕事相手のイギリスに住んでいる娘さんが「知り合いかも」に出てきて、一体全体なんでわかるのか本当に不思議で、ある意味気持ち悪い、と返信してきた。
私も、1年も前に九大の科目履修したとき授業で一緒だった女の子が「知り合いかも」に出たことがある。
もちろん私は九大で科目履修したなんて一言も書いてないし、その子との共通点は「福岡在住」くらいである(市も違う)。
どんなすごいアルゴリズム(だっけ?)が開発されているにせよ、あり得ない。謎だ。
しかしながら、私は facebook の実名主義は断固支持している。
だからこそ、利用する気になったのだ(これまでのSNSなんてのは使う気になれなかった)。
これまでさまざまなネット犯罪が起きて、今回また aicezuki による不正入試事件だ。
もう匿名でネットを使ってやりたい放題やる時代には終止符を打たなければならない。
これからは実名じゃないとネットは利用できない、というところまでやらないと若い世代への悪影響は計り知れない。
aicezuki を野放しにした周りの方が悪いのだ。
よく「日本は匿名文化だから」という人がいるが、そんな文化はない。
柳田邦男が2005年に『壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別』(新潮社)で警告したことをもう一度思い起こしたい。
そもそも森内閣が景気対策のために小中学校にパソコンを導入したこと、つまり未来を担う子供たちを景気の食いものにしたことへの反省からこの本は始まる。
ここで、facebook を知らない人のために(私も1月ごろ始めたばかりでよくわからないが)説明すると、facebook に登録すると自分のプロフィール(出身地、学歴、趣味など、詳細さはそれぞれでよい)を記したページを持つ。
そうしたデータをもとに友人知人が登録していないか検索し、人の輪を広げていくというのが facebook の最大の特徴だ(と思う)。
実名だからこそ、現実では連絡の取りようがない旧知の人が見つかる可能性があるのだ。
それはいい。自分で知り合いを捜すのはわかる。
それとは別に、「知り合いかも?」といって、facebook側がその人の知り合いの可能性のある人を2人ずつ示してくれる窓がある。
そこに、大学時代の友人が表示されたのだ。
彼とはデータ的には「早稲田」という共通点しか見あたらない(これは他にも数え切れないほどたくさんいる)。しかも彼はその日登録したばかりだった。
なんで知り合いとわかったんだ?
彼にそうメッセージを送ると、彼は仕事相手のイギリスに住んでいる娘さんが「知り合いかも」に出てきて、一体全体なんでわかるのか本当に不思議で、ある意味気持ち悪い、と返信してきた。
私も、1年も前に九大の科目履修したとき授業で一緒だった女の子が「知り合いかも」に出たことがある。
もちろん私は九大で科目履修したなんて一言も書いてないし、その子との共通点は「福岡在住」くらいである(市も違う)。
どんなすごいアルゴリズム(だっけ?)が開発されているにせよ、あり得ない。謎だ。
しかしながら、私は facebook の実名主義は断固支持している。
だからこそ、利用する気になったのだ(これまでのSNSなんてのは使う気になれなかった)。
これまでさまざまなネット犯罪が起きて、今回また aicezuki による不正入試事件だ。
もう匿名でネットを使ってやりたい放題やる時代には終止符を打たなければならない。
これからは実名じゃないとネットは利用できない、というところまでやらないと若い世代への悪影響は計り知れない。
aicezuki を野放しにした周りの方が悪いのだ。
よく「日本は匿名文化だから」という人がいるが、そんな文化はない。
柳田邦男が2005年に『壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別』(新潮社)で警告したことをもう一度思い起こしたい。
そもそも森内閣が景気対策のために小中学校にパソコンを導入したこと、つまり未来を担う子供たちを景気の食いものにしたことへの反省からこの本は始まる。
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