Jimdo って?2011/03/01

SOHOにホームページは不可欠。
でも、自分で作るのは経験あるけど大変。
どうしようかと思っていたら、偶然「Jimdo」を知った。
HTMLを使わずに直接入力だけでホームページが作れるという。
さっそく飛びついた。

http://zogeisha.jimdo.com/

まだまだ工事中ですが。

しかし、これが普及したら、世にあまたあるホームページ制作会社はつぶれるな…。

Jimdo Pro へアップ2011/03/02

Jimdoの無料版では飽き足らなくなったので、けっきょくPro版にアップグレードした。

http://zogeisha.com/

さあ、このホームページが完成したら起業だ!

藤子不二雄の〝別れた〟理由2011/03/06

小学生のころ、漫画家志望の少年だった。
一番好きだったのは藤子不二雄の「怪物くん」。

BShiの「100年インタビュー」という番組に藤子不二雄Aが出ていた。

子どものころ、藤子不二雄は2人の人間だともちろん知っていた。
それぞれの本名も知っていた。
しかし、1つの漫画をどうやって2人で描くのか不思議だった。
紙をやりとりして交互に描くのだろうか、とか想像をたくましくしたものだ。
しかし不思議ではあっても、それが藤子不二雄だった。

だから、藤子不二雄がAとFに別れたときはショックだった。
そんなのは藤子不二雄じゃない、と思った。子どもの夢を壊されたと。

番組によると、AとFになったのは1987年のことだったという。
私はもうとっくに漫画を読まなくなっていた。
それでも、藤子不二雄が2つになったのはイヤだったのだ。

ビートルズが解散して、レノン=マッカートニー名義の曲の数々があれはジョンの曲、あれはポールの曲と明かされたときと同等のショックだった。

しかし、時間がたって、種明かしも楽しめるようになった。

だから、私が最も好きだった「怪物くん」を描いた藤子不二雄A(この言い方は今でも抵抗があるが)のインタビューも見ようという気になった。

前置きが長くなったが、その1987年のコンビ解消についても話が出た。
本人によると、その〝真相〟はこうだ。

完全な合作は「おばけのQ太郎」が最後で、お互い全くノータッチで何十年も来たから、55になって、もうそろそろこの辺で「別れる」んじゃなくて、お互い「独立する」と。「55の独立」って、かっこいいじゃないかということだった。

インタビュアーのアナウンサーがここでさらに突っ込んでくれた。
「2人の違いとはどういうものだったのか」
それには―。

藤本氏は20代、30代、40代、50代になっても「ドラえもん」が描けた。しかし僕(我孫子)は30代までは「ハットリくん」「怪物くん」いわゆる子供漫画が描けたが、酒やゴルフが好きなこともあって、だんだん子供漫画を描くのがつらくなってきた。そのころたまたま青年コミックが出てきて、「黒イせえるすまん」を描いた。そしてこの線があるじゃないか、という新しい発見をして、そっちに行った。だから、ファンからは藤本氏は「白い藤子」、僕は「黒い藤子」と、そういう分け方をされていたようだ。

なるほど。
互いの作品に全く干渉しなかったそうだが、それだけに路線の違いはのっぴきならないところまでいっていたようだ。
長年のつかえが下りた。

柳川で見た、ちょっと珍しいもの2011/03/06

京都造形芸術大学通信教育部大学院と芸術学科合同の公開講座in柳川。

まずは
三柱神社。ありそうで、あまり見ない木の鳥居。
ここは2005年に消防団員(or署員)の放火で社殿の大半が消失してしまった。
建て替えられた真新しい拝殿の裏にあった狛犬。
なぜか、頭の上に「玉」を載せている。
玉を口の中に入れているのはよく見るけど、こんなのは初めて。
対になっている「うん」の方は頭のてっぺんに一本角が突き出ていた。
同行した大学の先生によると、玉を持つのは獅子で、角があるのは狛犬だとか。そう聞いても、よく分からないが。

旧戸島家住宅で見た、変わったひな人形。
いわゆる普通のひな壇が飾ってあって、その下、というか、前面に飾ってあったもの。 お人形さんが「ははーっ」と這いつくばっているようだ。
「なんじゃ、こりは?」と思って地元の人に聞いたら、 これは初節句の時に(つまり赤ちゃんの時に)のみ飾るもので、 元気よくハイハイする姿を表しており、健やかな成長を願ってのものらしい。 
変わってるけど、とっても可愛いね。

帰りに1人で念願のオノ・ヨーコの祖父の家を見に行った。
小野家は代々、柳川藩士だったのだ。祖父の小野英二郎は日本興業銀行総裁を務めた名士。門だけが残され、何もない敷地は木が茂って荒れている。

門には一応、案内板が。
これだけでもジョン・レノンファンには大満足でした。

ついに開業届2011/03/07

久留米税務署に「個人事業開廃業届出書」「青色申告承認申請書」「青色専業専従者給与に関する届出書」を提出してきた。
さがSOHOネットワークのHPに「内職とは違うのだという事業主としての自覚のためにも、早めに提出しましょう」と書いてあったように、
ただ書類を提出しただけなのに身の引き締まる思いがした。

続けて久留米の県税事務所に「個人事業税に係る開業等報告書」を持っていったところ、文筆業は個人事業税の対象になっていないので提出する必要はないといわれた。
そうか、きたみりゅうじ『フリーランスを代表して申告と納税について教わってきました。』(後述)に書いてあったのはこのことか、とすぐにピンと来た。税を納めずにすむのはありがたいので、喜んで引き揚げた。

これで開業に関する手続きは終わり。
久留米商工会議所に立ち寄って、「簡易帳簿」とやらを購入。
100円ショップで入金伝票、出金伝票、カーボン紙、クリアファイルを買って帰った。

開業日は3月3日とした。

ここに至るまでに参考になったのは、

本では、
きたみりゅうじ『フリーランスを代表して申告と納税について教わってきました。』(日本実業出版社)
前田隆正『「身の丈起業」塾』(光文社)
楠木建『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)
クリス・アンダーソン『FREE(フリー)』(日本放送出版協会)

ネットでは、
SOHOCITYみたか
http://www.sohocity.jp/
福岡SOHOサポートセンター、ソーホーかごしま、
さがSOHOネットワーク(県が違うと登録させてくれなかったが)

実際に足を運んだのが、
福岡ISTのプレゼンテーションセミナー、
ソーホーかごしま、久留米ビジネスプラザ

「来年あたり創業しようかな」と考えたのが今年1月中旬だから、
ずいぶん迷いながらも展開は早かったのかもしれない。

自分史の手引き(1)2011/03/08

 自分史をどう書けばいいのか。
 それを考える上で参考になるものに自伝があります。
 その中でも古典として名高い、福沢諭吉の『福翁自伝』(岩波文庫)を見てみましょう。
 構成は次のようになっています。

幼少の時
長崎遊学
大阪修業
緒方の塾風
大阪を去って江戸に行く
初めてアメリカに渡る
ヨーロッパ各国に行く
攘夷論
再度米国行
王政維新
暗殺の心配
雑記
一身一家経済の由来
品行家風
老余の半生

 どうでしょう。自分の幼少期から語り起こし、時間の経過どおりに記していく。何も難しく考えることはありません。非常にオーソドックスです。ちなみに福沢諭吉は自分の故郷、大分・中津について「どこに行ってどんな苦労をしてもいいから、とにかくこの中津から出て行きたい」とそればかり願っていた、なんて書いていて、どきりとします。もっとも現代の中津人の名誉のために付け加えれば、福沢は当時の封建的な門閥制度に我慢がならなかったのです。ただただハッピーな自分史もいいでしょうが、もしそれを少しでも後世への問題提起にしたいのであれば、ときにはこういう手厳しい指摘も必要かもしれません。
 ひととおり自分の生涯について語り終えたあとは、そこに漏れたが捨てるには忍びないエピソードを「雑記」としてまとめ、また、自分の考えをまとめたところなど、参考になりそうです。
 もう一つ、これも名作として知られる宮本常一の『民俗学の旅』(講談社学術文庫)はさらに構成がわかりやすい。目次を見てみましょう。

1 家の歴史
2 祖父
3 父
4 母
5 私にとってのふるさと
6 郵便局員時代
7 小学校教員時代
8 柳田、渋沢、沢田先生に会う
9 アチック・ミューゼアムに入る
10 民俗調査の旅
11 戦時中の食料対策
12 戦後の農漁村をあるく
13 山村と離島
14 学位をもらう
15 日本一長い食客
16 雑文稼業
17 若い人たち・未来

 これはとても参考になりそうですね。

卒業が確定2011/03/08

わが京都造形芸術大学から卒業が確定したとの通知が来た。
3年に編入して、最短2年での卒業。

通信教育部だから、家での地道な勉強によるテキスト科目と、
あとはスクーリングに年6回の計12回行った(うち3回は東京キャンパス)。
思うほど楽しいもんじゃない。

夫婦や友人知人と誘い合って入学し、ワイワイなごやかにやっている地元の人たちを横目に、九州から1人で通うオジサンは孤独だった。
「遊びに来てるんじゃない」元を取ろうとがっついて授業中に質問しまくったから敬遠されていたかも。

授業内容は良かった。それより何より、
やっぱり大学の先生というのは、いい本を知っているということ。
いい本というのは世の中にごまんと眠っているのだが、
意外と出会うのは難しい。それだけでも価値があった。

文芸コース「一期生」という名誉に浴したが、
その分、まだ科目が充実していなかったのが残念だった。
なにしろ1年目は半分が未開講だった。
だから文芸科目だけじゃ足りないので、美術系科目をたくさん取った。
でも、けがの功名で美術に詳しくなったのはよかったかもしれない。

今年からは科目内容も充実してきて、
後輩がうらやましいが、のんびり留年してる余裕はない。
「卒業からが本番」。その言葉を噛みしめている。