加藤司書の碑2017/12/23

海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」(新潮文庫)の「平野国臣」を読んでいたら、こんな一節につき当たった。

「幕末・維新の時代には、天下の諸藩それぞれに慷慨憂国の人を出しているが、多い藩もあれば少ない藩もある。それは概言して、そのはじめにおいて徳川氏に恩を蒙ること深かった藩には少なく、薄かった藩に多い。筑前黒田家は関ヶ原役以前は豊前中津十二万二千石に過ぎなかったのが、この役で一挙に四倍以上の五十二万三千石の大封の主となった。(略)このありがたさは、三世紀に近い年が経っても忘れられない」

このため、桜田事変のあった時点までは、黒田藩には平野国臣以外、志士が一人もいなかったのだ。

「国臣がさかんに説き、その言う通りに桜田事変が勃発したので、はじめてどよめきがおこり、月形洗蔵、(略)等々の人々が輩出し、ついには重臣級にも加藤司書のような人が出ることになったのである」

今年10月30日に博多まち歩きをしたときに、加藤司書の碑があったので写真を掲げる。

櫛田神社から東長寺の方向へ直進し、東長寺の向かいから左折する。
現在はビル街の一角だが、天福寺という寺の跡。
「黒田藩家老勤皇家 加藤司書徳成公 自刃の地」とある。

天皇誕生日に勤皇家を取り上げるのは、いいかもしれない。