リットンは日本の主張に理解を示した2018/09/28

昨日付産経新聞「正論」欄は、平川祐弘・東京大学名誉教授の「歴史の誤報を反論できる日本に」だったが、実に興味深かった。

歴史教科書問題がテーマだ。

筆者の平川氏は、リットン調査団が中華民国の教科書について、排日思想を煽っていると批判している文章を読んで驚いたという。

「私は英国人リットン卿が中国の肩を持つ報告をするから日本は国際連盟を脱退した、と思っていただけに驚いた」

確かに、学校ではこう習った。
そして東大の名誉教授でさえ、今でもそう信じていたのである。

ところが、実際にはリットン卿は日本の立場に理解を示していたのだ。
以下は私の調査である。

リットン報告書を公表前にスクープした、当時、大阪毎日新聞ロンドン特派員だった楠山義太郎氏が、日本新聞協会の『別冊新聞研究』(1982・7)で、詳しくインタビューに答えている(楠山氏はこのとき83歳)。

公表の2日前、ロンドン郊外の居城の接見室で楠山はリットン卿に会い、詳細な説明を聞いた。
日本が希望する満州国承認は無理だが、現地を視察して日本の主張も無理からぬ点があると呑み込めた。解決策は、満州を自治体にして広範な権限を与えることだ。今後、紛争が起きたら、日満支の三者で話し合えばいい。満州国承認という形式論に捕らわれず、現実政策を取るべきだ――ということだった。

昭和6年9月18日の柳条湖事件で始まった満州事変を、中国は同月国際連盟に提訴した。
連盟理事会は12月10日、イギリスのリットン卿を団長とする英、仏、独、伊、米五カ国の調査委員会(リットン調査団)の派遣を決議した。
明けて7年2月末、リットン調査団は東京にやってきた。

調査は半年続き、リットンは9月4日に上海を発ち、帰国の途に就いた。

調査の結果は、満州国の全面否定ではなかった。

国際連盟の常任理事国は日英仏伊4カ国。英仏とも在支権益を守りたいので、日本を連盟から追放したら自分の身に降りかかってくる。
リットン報告書の一部修正という譲歩を引き出せる可能性はあった。

その後の経緯は省略するが、学校で教えている、リットン調査団が中国を全面支持し、日本は腹を立てて連盟を脱退したというストーリーは、例によって一方的な「日本=悪者」論で、自虐史観でしかないのである。

東大名誉教授の保守派論客でも信じるくらい、自虐史観の束縛はすごい。

平川氏の「正論」ではもう1個所注目した。

1927年、田中義一首相が昭和天皇に上奏したという、「タナカ・メモランダム」(田中上奏文)は中国侵略計画書として世界に喧伝され、東京裁判でも取り上げられたが、実は「偽書」であり、作者の中国人も判明している。

これが中国の歴史教科書には今も載っているというから、腹立たしい。

天皇家はなぜ続いたのか①2018/09/28



「海人と天皇」、副題が「日本とは何か」。
どうして逆にしなかったのか。

「日本とは何か――海人と天皇」ならもっと読まれ、注目される本となっただろうに。

その疑問は読むうちに解けた。

第1章の1行目は、「数年前から私は『日本とは何か』というテーマについて、一冊の本を書いてみたいと思っていた」から始まる。

ところが、終わりに近い第21章で、「この『日本とは何か』という一連の論考は、ある意味で失敗であった」と白旗を上げている。

「最初立てた原案は狂ってしまった」理由は、「(藤原不比等の娘で、文武天皇の后となった)藤原宮子=海人の娘」説に、「あまりに多くの頁数を割いた」せいである。

私が本棚から20数年ぶりにこの本を取り出し、再読し始めたのは、「天皇家はなぜ続いたのか」という疑問による。

そのカギは藤原不比等が握っているらしい。

第1章には「『古事記』と『日本書紀』の成立を実質的に担った人物は誰であるか、いろいろな説があるが、私と上山春平氏はその人物を藤原不比等とみた。不比等は私たちの説が出るまでは歴史の陰の人物であったが、私たちは不比等を歴史の表に登場させた」と自信満々に書いてあるので、これは期待が持てると思った。

ところが、藤原不比等について概略は分かったものの、本人も言うように、藤原不比等の娘で文武天皇の后となった藤原宮子に、あまりに長く脱線し、私の期待とは大きく外れていった。

上山春平を読むしかあるまい。

ところで、やはり第1章の中の言説だが、哲学者らしく、20数年たっても古びない、現代思潮に関する洞察があるので紹介したい。

「日本の思想は西欧主義から国家主義、国家主義から西欧主義、そしてまた西欧主義から国家主義へと、ほとんど無反省な変転の繰り返しであり、今後もこの繰り返しを続けるであろうと思われる。
ごく大ざっぱに言えば、明治維新以後三十年、いわゆる明治三十七、八年戦役、つまり日露戦争以後が一つの日本の思想的転換のときであろう。そして大正デモクラシーによる巻き返しがあるとはいえ、この国家主義思想は昭和二十年まで日本の中心的思想であった。そして敗戦によってこの国家主義は崩壊したが、また西欧主義は復活する。その西欧主義にはアメリカやヨーロッパを模範とする資本主義とソビエト連邦を模範とする社会主義があったが、私は戦後の日本の知識人の思想は、ほぼすべてどちらかの西欧主義に属していたと思う。
しかし現代日本の経済的台頭とともに、また国家主義の風潮が強くなっている。ちょうど明治維新後三十年経って国家主義が台頭して来たように、戦後三十年、西欧主義が衰えて、国家主義が台頭してくる可能性がある」

さて、現在はもう戦後73年だ。
国家主義と西欧主義は今、愛国主義とグローバリズム(日本否定)に姿を変えて激突しているかに見える。