今日のひとこと ― 2021/08/27
昭和天皇、繆斌(みょうひん)問題を語る
これは一国の首相ともある者(小磯国昭)が、素状(ママ)の判らぬ繆斌と云ふ男に、日支和平問題に付て、かゝり合はうとした問題である。
重光[葵]は前から繆斌を知つてゐた。彼は最初は汪[精衛]と行動を共にしたが、後では汪を見捨てた不信の男である。当時日本は危機で、所謂溺れる者は藁をも把む時ではあつたが、苟くも一国の首相ともあるものが、繆斌如き者の力によつて、日支全面的に和平を図らうと考へた事は頗る見識のない事である。
繆斌は陸軍の飛行機で日本に来た(注=昭和20年3月)が、どうして杉山[陸相]が之を許したか、諒解に苦[し]むが、彼の来朝は朝日の記者、田村[真作]といふ者の勧[め]で緒方竹虎[国務相]が策動したものである。
(中略)
東久邇宮もこの問題に関係があるらしいが、之は緒方等におだてられたものであらう。木戸は東久邇宮の処に行つて極力反対してきたそうだ。
~『昭和天皇独白録』(文藝春秋)p.106-107
天皇が一介の朝日新聞記者の名を挙げて苦言を呈するなどは、異例中の異例だろう。
そして〝共犯〟の緒方竹虎は、大正14(1925)年2月から昭和18(1943)年まで18年間にわたって、「筆政」という朝日新聞の編集方針を統括する頂点にいた男だ。
このことからも先の大戦中、朝日新聞がどんなに日本に害をもたらしたかが分かる。
1カ月ほど前に江崎道朗氏が『緒方竹虎と日本のインテリジェンス』などという新書を出して、緒方竹虎を持ち上げているようだが、とんでもないことだ。実に怪しい、うさんくさい人物である。尾崎秀実(ほつみ)や笠(りゅう)信太郎、聴濤(きくなみ)克巳といった筋金入りの共産主義者を重要ポストに起用して日本の方向性を誤らせた責任は大きい。『緒方竹虎とは何者か』という本を書きたいくらいだ。実際、朝日新聞についてはかなり研究したが、苦行に近かったのであんまり朝日新聞のことは考えたくないのが本心だ。成果の一端は『花に風 林芙美子の生涯』に書いたので、ぜひお読みいただきたい。そう、林芙美子と朝日新聞は関係が深かった。これは誰も書いていない視点だ。
ちなみに私は、昭和天皇の言葉には全幅の信頼がある。何の利害関係もない、日本で最も無私の人だからだ。いわば緒方竹虎とは対極にある。
これは一国の首相ともある者(小磯国昭)が、素状(ママ)の判らぬ繆斌と云ふ男に、日支和平問題に付て、かゝり合はうとした問題である。
重光[葵]は前から繆斌を知つてゐた。彼は最初は汪[精衛]と行動を共にしたが、後では汪を見捨てた不信の男である。当時日本は危機で、所謂溺れる者は藁をも把む時ではあつたが、苟くも一国の首相ともあるものが、繆斌如き者の力によつて、日支全面的に和平を図らうと考へた事は頗る見識のない事である。
繆斌は陸軍の飛行機で日本に来た(注=昭和20年3月)が、どうして杉山[陸相]が之を許したか、諒解に苦[し]むが、彼の来朝は朝日の記者、田村[真作]といふ者の勧[め]で緒方竹虎[国務相]が策動したものである。
(中略)
東久邇宮もこの問題に関係があるらしいが、之は緒方等におだてられたものであらう。木戸は東久邇宮の処に行つて極力反対してきたそうだ。
~『昭和天皇独白録』(文藝春秋)p.106-107
天皇が一介の朝日新聞記者の名を挙げて苦言を呈するなどは、異例中の異例だろう。
そして〝共犯〟の緒方竹虎は、大正14(1925)年2月から昭和18(1943)年まで18年間にわたって、「筆政」という朝日新聞の編集方針を統括する頂点にいた男だ。
このことからも先の大戦中、朝日新聞がどんなに日本に害をもたらしたかが分かる。
1カ月ほど前に江崎道朗氏が『緒方竹虎と日本のインテリジェンス』などという新書を出して、緒方竹虎を持ち上げているようだが、とんでもないことだ。実に怪しい、うさんくさい人物である。尾崎秀実(ほつみ)や笠(りゅう)信太郎、聴濤(きくなみ)克巳といった筋金入りの共産主義者を重要ポストに起用して日本の方向性を誤らせた責任は大きい。『緒方竹虎とは何者か』という本を書きたいくらいだ。実際、朝日新聞についてはかなり研究したが、苦行に近かったのであんまり朝日新聞のことは考えたくないのが本心だ。成果の一端は『花に風 林芙美子の生涯』に書いたので、ぜひお読みいただきたい。そう、林芙美子と朝日新聞は関係が深かった。これは誰も書いていない視点だ。
ちなみに私は、昭和天皇の言葉には全幅の信頼がある。何の利害関係もない、日本で最も無私の人だからだ。いわば緒方竹虎とは対極にある。
今日のひとこと ― 2021/08/27
尾崎秀樹(尾崎秀実の弟)
朝日新聞の上海支局は中国人街に接し、しかも最初の激戦がおこった通りのすぐ表側だったこともあって、[上海]事変勃発と同時に銃声に包まれ、邦人の犠牲も近くから出た。そして庭先に砲撃を被災したので、やむなく万歳館という旅館に事務所を移した。
(略)
尾崎[秀実]は朝日新聞社の腕章を巻いて、飛弾する街を勇敢にかけまわった。バリケードをふみこえ、鉄条網をくぐって、死闘のあとを見て廻った。宮崎世龍(注=宮崎滔天の甥、支局の同僚、戦後は中国共産党に関する本などを出している)と一緒に行動したこともある。
(略)
尾崎はその姿(注=中国人捕虜が日本軍の銃殺から逃れた)にはげしい衝撃をうけた。不屈の意志を見る思いだった。「大事なことは、最後まで希望を捨てないことだ」、そう心で叫んだ。この言葉は後々まで尾崎の内心に尾を引いて、ひびきつづけた。そのことを尾崎は感動をこめて川合貞吉(注=尾崎ゾルゲ事件で検挙され懲役10年)に伝えている。
尾崎はその翌日も宝山路を訪ねた。すでに一面の焼土と化している。まだ瓦礫の間からは煙が立ちのぼっていた。その間に、折りかさなるようにして十九路軍の兵士たちの遺体がころがっていた。寒風がその遺体をなめるようにして吹きすぎる。その遺体にまじって、銃をもった少年や少女の姿もあった。国民救国軍に参加した学生たちだ。尾崎はその前に立ったまま動かなかった。
~『上海1930年』(岩波新書)
昭和7年に上海事変(上海事件)が起こったとき、尾崎秀実は朝日新聞の上海支局にいたのだ。
異常なまでの張り切りようである。
このときすでにスパイ活動をしていたかどうかは分からないが、少なくとも日本軍より中国軍に共感・共鳴していた様子が見てとれる。
朝日新聞の上海支局は中国人街に接し、しかも最初の激戦がおこった通りのすぐ表側だったこともあって、[上海]事変勃発と同時に銃声に包まれ、邦人の犠牲も近くから出た。そして庭先に砲撃を被災したので、やむなく万歳館という旅館に事務所を移した。
(略)
尾崎[秀実]は朝日新聞社の腕章を巻いて、飛弾する街を勇敢にかけまわった。バリケードをふみこえ、鉄条網をくぐって、死闘のあとを見て廻った。宮崎世龍(注=宮崎滔天の甥、支局の同僚、戦後は中国共産党に関する本などを出している)と一緒に行動したこともある。
(略)
尾崎はその姿(注=中国人捕虜が日本軍の銃殺から逃れた)にはげしい衝撃をうけた。不屈の意志を見る思いだった。「大事なことは、最後まで希望を捨てないことだ」、そう心で叫んだ。この言葉は後々まで尾崎の内心に尾を引いて、ひびきつづけた。そのことを尾崎は感動をこめて川合貞吉(注=尾崎ゾルゲ事件で検挙され懲役10年)に伝えている。
尾崎はその翌日も宝山路を訪ねた。すでに一面の焼土と化している。まだ瓦礫の間からは煙が立ちのぼっていた。その間に、折りかさなるようにして十九路軍の兵士たちの遺体がころがっていた。寒風がその遺体をなめるようにして吹きすぎる。その遺体にまじって、銃をもった少年や少女の姿もあった。国民救国軍に参加した学生たちだ。尾崎はその前に立ったまま動かなかった。
~『上海1930年』(岩波新書)
昭和7年に上海事変(上海事件)が起こったとき、尾崎秀実は朝日新聞の上海支局にいたのだ。
異常なまでの張り切りようである。
このときすでにスパイ活動をしていたかどうかは分からないが、少なくとも日本軍より中国軍に共感・共鳴していた様子が見てとれる。
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