あけましておめでとうございます! ― 2025/01/01
新年あけましておめでとうございます。
— コラムニスト-1.0 としどん (@tossiee) December 31, 2024
今年の初日の出は完璧でした。朝焼けもすごかった。
きっと良い一年になるでしょう。 pic.twitter.com/qQoryZql39
今日のひとこと(学芸員資格) ― 2025/01/03
ロックシンガーの相川七瀬さんと、元宝塚歌劇団トップ娘役の美園さくらさんとの対談から(産経新聞)。
ともに高校を中退して芸能人になったが、今では大学を卒業し、さらには大学院で学んでいるという。
その対談の中の、学芸員資格に関する部分を抜き出す。
実は私も今年は学芸員資格を目ざそうと思っている。
だが、なかなか簡単ではないようだ…。
美園 あと大学院では外国人との共同研究もあって、学会での発表のために合宿したりして、人脈がすごく広がりました。今は学芸員の資格取得の勉強もしています。それこそこれから、民俗学の単位も取らなくてはいけないんです。
相川 私も学芸員の資格、持っていますよ。
美園 先輩! 今、大変過ぎて…。授業の量が半端なくて、しんどいです。
相川 学芸員は課程が大変で、挫折してしまう。私の学部の友達もほとんど残らなかった。実習取るまでも大変。でもつい先日まで、ミュージカルのヒロインをなさっていた美園さんが、考古学の現場でハケ使って発掘したら、本当にすごいですよね。そのうち2人でビニール手袋して木簡持っていたりして(笑)。
美園 大喜びで写真撮っちゃいます(笑)。そういうの、ロマンを感じます。
相川 昨秋、奈良国立博物館で催された正倉院展で、1300年前の聖武天皇の大嘗祭の遺物が展示されたんです。その中に、私の研究対象の赤米関連のものがあると聞き、現地に行ったのにない。 悔やんでも悔やみきれず、再度確認したら期間限定の展示と分かって、また慌てて行きました。私も執念ですが、ドロドロの土の中から、木くずと思うような木簡を、史料として復元して展示する、学芸員の執念も感じました。
美園 そこに共感しますよね。学芸員の苦労も分かる。史料は、ただ並べて展示しているのではないし、見やすいよう明るくしたらいいと普通は思うけれども、温度や湿度、照明、いろいろな条件の中で展示されています。(引用おわり)
私は今のところ4年計画で資格を取ろうと考えている。
そうなると71歳の学芸員!
この2人とどこかで互いに学芸員として出会いたいものだ。
ともに高校を中退して芸能人になったが、今では大学を卒業し、さらには大学院で学んでいるという。
その対談の中の、学芸員資格に関する部分を抜き出す。
実は私も今年は学芸員資格を目ざそうと思っている。
だが、なかなか簡単ではないようだ…。
美園 あと大学院では外国人との共同研究もあって、学会での発表のために合宿したりして、人脈がすごく広がりました。今は学芸員の資格取得の勉強もしています。それこそこれから、民俗学の単位も取らなくてはいけないんです。
相川 私も学芸員の資格、持っていますよ。
美園 先輩! 今、大変過ぎて…。授業の量が半端なくて、しんどいです。
相川 学芸員は課程が大変で、挫折してしまう。私の学部の友達もほとんど残らなかった。実習取るまでも大変。でもつい先日まで、ミュージカルのヒロインをなさっていた美園さんが、考古学の現場でハケ使って発掘したら、本当にすごいですよね。そのうち2人でビニール手袋して木簡持っていたりして(笑)。
美園 大喜びで写真撮っちゃいます(笑)。そういうの、ロマンを感じます。
相川 昨秋、奈良国立博物館で催された正倉院展で、1300年前の聖武天皇の大嘗祭の遺物が展示されたんです。その中に、私の研究対象の赤米関連のものがあると聞き、現地に行ったのにない。 悔やんでも悔やみきれず、再度確認したら期間限定の展示と分かって、また慌てて行きました。私も執念ですが、ドロドロの土の中から、木くずと思うような木簡を、史料として復元して展示する、学芸員の執念も感じました。
美園 そこに共感しますよね。学芸員の苦労も分かる。史料は、ただ並べて展示しているのではないし、見やすいよう明るくしたらいいと普通は思うけれども、温度や湿度、照明、いろいろな条件の中で展示されています。(引用おわり)
私は今のところ4年計画で資格を取ろうと考えている。
そうなると71歳の学芸員!
この2人とどこかで互いに学芸員として出会いたいものだ。
今日のひとこと(色覚異常) ― 2025/01/06
新聞社を受けてみようと考えてはいたが、新聞社の募集には当時、「色神異常不可」の条件があった。赤緑色弱の診断があり新聞社はだめかと求人票をながめていると、フジ新聞社にはその項目がない。情けないが、それが志望理由だった。
(中略)
ちなみに、なぜフジ新聞社だけ「色神異常不可」の記載がなかったのか。入社後に聞くと、「忘れていた」のだという。人のその後を左右する偶然や運なんて、まあそんなものだ。
「色神異常」や「赤緑色弱」は今や死語である。呼称は「色覚異常」から「色覚多様性」へと改められた。厚生労働省は平成13年、雇用採用時の色覚検査を原則廃止すると通達した。
~5日付産経新聞「日曜に書く」論説委員・別府育郎~
今あらゆる〝弱者〟が声を上げる時代だが、色覚異常者はおとなしい。
「もっと配慮しろ」と権利を主張するわけでもないし、そもそも〝カミングアウト〟する人も珍しい。
だが、確実に人生の幅は狭まる。
小学生のとき漫画が得意でクラスメイトから「描いて、描いて」とリクエストされ、「怪獣下敷き」は順番待ちの人気だった。漫画家になりたかったが、カラーが描けないので断念するしかなかった。
高校3年で文系・理系のクラスに分かれた時、理系に進む選択肢はなかった。
「赤緑色弱」だから日常生活に大きな不便はない。
ただ、点や線になると識別が難しい。
レーザーポインターの赤い点が見えない。
折れ線グラフを色で表わされるとお手上げだ。
この二つはやめてほしいと思う。
また「紅葉が美しいと感じられない」というのもあるが、紅葉の遅れた昨秋はなぜか美しく感じた。なぜだろう。紅葉がまだら模様で、そのグラデーションがたまらなく美しかった。
私はこの別府育郎氏と同い年だが、当時、新聞社の募集に「色神異常不可」の条件があった記憶はない。
新聞社は文系の典型的な就職先だったから。
そうして私も新聞記者となった。
それにしても今、「色覚多様性」と言うなどとは知らなかった。
(中略)
ちなみに、なぜフジ新聞社だけ「色神異常不可」の記載がなかったのか。入社後に聞くと、「忘れていた」のだという。人のその後を左右する偶然や運なんて、まあそんなものだ。
「色神異常」や「赤緑色弱」は今や死語である。呼称は「色覚異常」から「色覚多様性」へと改められた。厚生労働省は平成13年、雇用採用時の色覚検査を原則廃止すると通達した。
~5日付産経新聞「日曜に書く」論説委員・別府育郎~
今あらゆる〝弱者〟が声を上げる時代だが、色覚異常者はおとなしい。
「もっと配慮しろ」と権利を主張するわけでもないし、そもそも〝カミングアウト〟する人も珍しい。
だが、確実に人生の幅は狭まる。
小学生のとき漫画が得意でクラスメイトから「描いて、描いて」とリクエストされ、「怪獣下敷き」は順番待ちの人気だった。漫画家になりたかったが、カラーが描けないので断念するしかなかった。
高校3年で文系・理系のクラスに分かれた時、理系に進む選択肢はなかった。
「赤緑色弱」だから日常生活に大きな不便はない。
ただ、点や線になると識別が難しい。
レーザーポインターの赤い点が見えない。
折れ線グラフを色で表わされるとお手上げだ。
この二つはやめてほしいと思う。
また「紅葉が美しいと感じられない」というのもあるが、紅葉の遅れた昨秋はなぜか美しく感じた。なぜだろう。紅葉がまだら模様で、そのグラデーションがたまらなく美しかった。
私はこの別府育郎氏と同い年だが、当時、新聞社の募集に「色神異常不可」の条件があった記憶はない。
新聞社は文系の典型的な就職先だったから。
そうして私も新聞記者となった。
それにしても今、「色覚多様性」と言うなどとは知らなかった。
皇極天皇の母孝行 ― 2025/01/15
今、日本書紀を読み進めているのだが、皇極2年(643)9月11日、皇極天皇(女帝)の母、吉備姫王が亡くなったところ。
天皇は母が病に伏せた時から、亡くなるまで側を離れず、看病を怠ることがなかったという。
母が亡くなるまで看病ひとつできなかった私は激しく打たれた。
吉備姫王墓に行ってみたいと検索してみると、たたずまいに記憶がある。
2023年10月9日、飛鳥ガイドの〝たまご〟の案内で訪れていたのだった。
なぜここに猿石があるのかははっきりしていないようだが、いろいろな石造物をつくったことで有名な斉明天皇(皇極の重祚)が、母の墓にお気に入りの石像を置いたとしても、ごく自然なことだと思える。
天皇は母が病に伏せた時から、亡くなるまで側を離れず、看病を怠ることがなかったという。
母が亡くなるまで看病ひとつできなかった私は激しく打たれた。
吉備姫王墓に行ってみたいと検索してみると、たたずまいに記憶がある。
2023年10月9日、飛鳥ガイドの〝たまご〟の案内で訪れていたのだった。
飛鳥の吉備姫王墓。猿石で有名。 pic.twitter.com/HwBLVz8WEa
— コラムニスト-1.0 としどん (@tossiee) January 14, 2025
なぜここに猿石があるのかははっきりしていないようだが、いろいろな石造物をつくったことで有名な斉明天皇(皇極の重祚)が、母の墓にお気に入りの石像を置いたとしても、ごく自然なことだと思える。
安徳天皇と太宰府 ― 2025/01/19
太宰府の観世音寺の近くに「旧小字 御所ノ内」という碑が立っており、なぜ天皇の住まいを示す「御所」という地名があるのかという疑問を以前書いた。
https://restart.asablo.jp/blog/2022/03/11/9471560
これがどうやら、安徳天皇がおられた場所のことらしい。
高倉天皇と、平清盛の娘の徳子との間に生まれた安徳天皇は、治承4年(1180年)、数え年3歳で即位する。
補佐したのはもちろん平清盛だ。
ところが寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、安徳天皇は平家一門に連れられて三種の神器とともに都落ちする。
そして太宰府に行っているのだ!
江戸時代、貝原益軒の書いた『筑前国続風土記』の一節にこうある。
「太宰府の官舎は、安徳天皇筑紫に蒙塵(もうじん=天子が難をのがれて都の外に逃げること)ありし時までは、猶ありけるにや。平家物語などにも、寿永二年八月十七日、平家は筑前国御笠郡太宰府に着、同十八日、平家安楽寺(今の太宰府天満宮)に参るとあり。(中略)
今も太宰府の跡の田地を、土民は内裏のあとゝ云。又田の字(あざな)を紫宸殿などいへるは、安徳帝のしばらく爰(ここ)に鳳駕(ほうが=天子の乗り物)をとゞめ給へる故に、かく名付しならん」
なんと貝原益軒が生きていた18世紀初めには、太宰府に「内裏のあと」や「紫宸殿」といった地名があったというのである。
今も残る「旧小字 御所ノ内」という碑も、間違いなくその関連だろう。
安徳天皇は大宰府を経て屋島に行く。そこには御所も造られたという。
しかし、平家は寿永4年(1185)2月、屋島の戦いに敗れ、4月、壇ノ浦の戦いでついに一門は滅亡する。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月)で崩御したのである。
なお、以上は、今月15日の大宰府アカデミーでの一瀬智さんの資料が参考になりました。
https://restart.asablo.jp/blog/2022/03/11/9471560
これがどうやら、安徳天皇がおられた場所のことらしい。
高倉天皇と、平清盛の娘の徳子との間に生まれた安徳天皇は、治承4年(1180年)、数え年3歳で即位する。
補佐したのはもちろん平清盛だ。
ところが寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、安徳天皇は平家一門に連れられて三種の神器とともに都落ちする。
そして太宰府に行っているのだ!
江戸時代、貝原益軒の書いた『筑前国続風土記』の一節にこうある。
「太宰府の官舎は、安徳天皇筑紫に蒙塵(もうじん=天子が難をのがれて都の外に逃げること)ありし時までは、猶ありけるにや。平家物語などにも、寿永二年八月十七日、平家は筑前国御笠郡太宰府に着、同十八日、平家安楽寺(今の太宰府天満宮)に参るとあり。(中略)
今も太宰府の跡の田地を、土民は内裏のあとゝ云。又田の字(あざな)を紫宸殿などいへるは、安徳帝のしばらく爰(ここ)に鳳駕(ほうが=天子の乗り物)をとゞめ給へる故に、かく名付しならん」
なんと貝原益軒が生きていた18世紀初めには、太宰府に「内裏のあと」や「紫宸殿」といった地名があったというのである。
今も残る「旧小字 御所ノ内」という碑も、間違いなくその関連だろう。
安徳天皇は大宰府を経て屋島に行く。そこには御所も造られたという。
しかし、平家は寿永4年(1185)2月、屋島の戦いに敗れ、4月、壇ノ浦の戦いでついに一門は滅亡する。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月)で崩御したのである。
なお、以上は、今月15日の大宰府アカデミーでの一瀬智さんの資料が参考になりました。
青山繁晴さんが私の本を読んでくれた! ― 2025/01/20
ちょっとした事件がありました。
参院議員の青山繁晴さんが、私の『林芙美子が見た大東亜戦争』をブログで取り上げてくださったのです。
青山ファンにはおなじみの、あの「青山繁晴の道すがらエッセイ/On the Road」です!
タイトルは「世から消された本があります」。
ちょっと苦笑してしまいますが、しっかり評価して下さっています。
全文を引用します。
▼「この頃、サイン会をやってくれませんね~」と先日、読者のかたから声を掛けられました。
確かに。
忙しくなればなるほど、元気が出るのが、ありのままのわたしです。
どんなに忙しくてもサイン会、やりたいです。
あまりの超絶日程を見てびびってらっしゃるのか、版元からさっぱり声が掛かりませぬ。わはは。
▼こうやってスキマ時間すら無くなると、逆に、2分読書というのを最近、やってるのです。3分では無く、2分です。
それも今は、2冊の同時進行です。
1冊は、日本の戦争期、もう1冊は幕末期を描いた本なので、時代が脳味噌のなかで絶妙に交錯します。
なおかつ、日本と昼夜がまるで逆の北米時間の感覚も、心身は平気であっても躰のどこかにあるので、これも交錯します。
総じて、なかなかファンタジックな2分間です。
ただし、本のページはじりじりと、まさしく匍匐前進のようにしか進みません。読むのは速いほうですが、細切れというか、たまに用意できる2分に交互に2冊を読んでいると、そうなります。
それでも読書はやっぱり愉しい。他の書き手の労作を読むのは、心地よい敬意が湧いてきて、楽しいのです。
上に記した2冊のうち、戦争期を描いたノンフィクションは、『林芙美子が見た大東亜戦争 ―放浪記の作家は、なぜ南京大虐殺を書かなかったのか』という単行本です。
意義の深い本だと考えます。
▼林芙美子さんは、その赤裸々に真っ直ぐに見る眼を、わたしは好きです。読書家だった亡き母が複雑な関心を持っていた作家ということもあります。子供の頃に、なぜ複雑な関心があるのかを、母から何度か聴かされました。
林芙美子さんは身を呈して戦地を歩き、南京にも滞在するのですが、リアリズムに徹している彼女が「南京の大虐殺」なるものを一切書かなかったのは、それが無かったからであることを、新聞記者出身の著者、宮田俊行さん (知り合いでも何でもありませぬ)が公平に検証しています。
優れた本です。
著名な歴史学者の方々の通説を、第一次資料で覆す本です。
しかし、世からほぼ消されていると言わざるを得ません。
なぜか。
敗戦後日本の主流にとって不都合なことばかりを記しているからでしょうね。
▼『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』も、ほぼ同じ運命のようです。
けれども、いつか誰かに読まれるかもしれない。
ちょうど上記の本を、不肖わたしが偶然に見つけて、じりじりと、とにかく読み進めているように。
▼ちなみに、この社会と政治の情況で、あえて自由民主党の70年史で初の『反しがらみ党員』となってわたしと連携しようとする主権者は、本物の中の本物として、日本のまつりごとを変えようとしている人だと、わたしは感じています、考えています。
なぜ自由民主党を変えるのか。
自由民主党、あるいはジミントウほど、敗戦後日本の巨大な既得権益をいまだ支配している政党は無いからです。それを変えないと、実は、何があっても何も変わっていません。
凍りつく寒風のさなかの連帯はここにあります。
(以上)
いいものを書けば、いつかは誰かが評価してくれる。
そうは思っていても、なかなか実現はしませんでした。
でも、やっとかないました。
青山さん、ありがとうございました。
参院議員の青山繁晴さんが、私の『林芙美子が見た大東亜戦争』をブログで取り上げてくださったのです。
青山ファンにはおなじみの、あの「青山繁晴の道すがらエッセイ/On the Road」です!
タイトルは「世から消された本があります」。
ちょっと苦笑してしまいますが、しっかり評価して下さっています。
全文を引用します。
▼「この頃、サイン会をやってくれませんね~」と先日、読者のかたから声を掛けられました。
確かに。
忙しくなればなるほど、元気が出るのが、ありのままのわたしです。
どんなに忙しくてもサイン会、やりたいです。
あまりの超絶日程を見てびびってらっしゃるのか、版元からさっぱり声が掛かりませぬ。わはは。
▼こうやってスキマ時間すら無くなると、逆に、2分読書というのを最近、やってるのです。3分では無く、2分です。
それも今は、2冊の同時進行です。
1冊は、日本の戦争期、もう1冊は幕末期を描いた本なので、時代が脳味噌のなかで絶妙に交錯します。
なおかつ、日本と昼夜がまるで逆の北米時間の感覚も、心身は平気であっても躰のどこかにあるので、これも交錯します。
総じて、なかなかファンタジックな2分間です。
ただし、本のページはじりじりと、まさしく匍匐前進のようにしか進みません。読むのは速いほうですが、細切れというか、たまに用意できる2分に交互に2冊を読んでいると、そうなります。
それでも読書はやっぱり愉しい。他の書き手の労作を読むのは、心地よい敬意が湧いてきて、楽しいのです。
上に記した2冊のうち、戦争期を描いたノンフィクションは、『林芙美子が見た大東亜戦争 ―放浪記の作家は、なぜ南京大虐殺を書かなかったのか』という単行本です。
意義の深い本だと考えます。
▼林芙美子さんは、その赤裸々に真っ直ぐに見る眼を、わたしは好きです。読書家だった亡き母が複雑な関心を持っていた作家ということもあります。子供の頃に、なぜ複雑な関心があるのかを、母から何度か聴かされました。
林芙美子さんは身を呈して戦地を歩き、南京にも滞在するのですが、リアリズムに徹している彼女が「南京の大虐殺」なるものを一切書かなかったのは、それが無かったからであることを、新聞記者出身の著者、宮田俊行さん (知り合いでも何でもありませぬ)が公平に検証しています。
優れた本です。
著名な歴史学者の方々の通説を、第一次資料で覆す本です。
しかし、世からほぼ消されていると言わざるを得ません。
なぜか。
敗戦後日本の主流にとって不都合なことばかりを記しているからでしょうね。
▼『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』も、ほぼ同じ運命のようです。
けれども、いつか誰かに読まれるかもしれない。
ちょうど上記の本を、不肖わたしが偶然に見つけて、じりじりと、とにかく読み進めているように。
▼ちなみに、この社会と政治の情況で、あえて自由民主党の70年史で初の『反しがらみ党員』となってわたしと連携しようとする主権者は、本物の中の本物として、日本のまつりごとを変えようとしている人だと、わたしは感じています、考えています。
なぜ自由民主党を変えるのか。
自由民主党、あるいはジミントウほど、敗戦後日本の巨大な既得権益をいまだ支配している政党は無いからです。それを変えないと、実は、何があっても何も変わっていません。
凍りつく寒風のさなかの連帯はここにあります。
(以上)
いいものを書けば、いつかは誰かが評価してくれる。
そうは思っていても、なかなか実現はしませんでした。
でも、やっとかないました。
青山さん、ありがとうございました。
最近のコメント