安徳天皇と太宰府2025/01/19

太宰府の観世音寺の近くに「旧小字 御所ノ内」という碑が立っており、なぜ天皇の住まいを示す「御所」という地名があるのかという疑問を以前書いた。

https://restart.asablo.jp/blog/2022/03/11/9471560

これがどうやら、安徳天皇がおられた場所のことらしい。

高倉天皇と、平清盛の娘の徳子との間に生まれた安徳天皇は、治承4年(1180年)、数え年3歳で即位する。
補佐したのはもちろん平清盛だ。

ところが寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、安徳天皇は平家一門に連れられて三種の神器とともに都落ちする。

そして太宰府に行っているのだ!

江戸時代、貝原益軒の書いた『筑前国続風土記』の一節にこうある。

「太宰府の官舎は、安徳天皇筑紫に蒙塵(もうじん=天子が難をのがれて都の外に逃げること)ありし時までは、猶ありけるにや。平家物語などにも、寿永二年八月十七日、平家は筑前国御笠郡太宰府に着、同十八日、平家安楽寺(今の太宰府天満宮)に参るとあり。(中略)
今も太宰府の跡の田地を、土民は内裏のあとゝ云。又田の字(あざな)を紫宸殿などいへるは、安徳帝のしばらく爰(ここ)に鳳駕(ほうが=天子の乗り物)をとゞめ給へる故に、かく名付しならん」

なんと貝原益軒が生きていた18世紀初めには、太宰府に「内裏のあと」や「紫宸殿」といった地名があったというのである。

今も残る「旧小字 御所ノ内」という碑も、間違いなくその関連だろう。

安徳天皇は大宰府を経て屋島に行く。そこには御所も造られたという。

しかし、平家は寿永4年(1185)2月、屋島の戦いに敗れ、4月、壇ノ浦の戦いでついに一門は滅亡する。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月)で崩御したのである。

なお、以上は、今月15日の大宰府アカデミーでの一瀬智さんの資料が参考になりました。

験(しるし)なきものを思はず2023/11/27

伊藤博『萬葉集釈注』第2巻を読み進め、大宰帥・大伴旅人邸で開かれた宴での歌(328-351)まで来た。

旅人の歌。

験(しるし)なきものを思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし

[訳]この人生、くよくよ甲斐のない物思いなどに耽るより、一杯の濁り酒でも飲む方がましであるらしい。

私の人生はまさに、くよくよと過去を思うことに脳内のほとんどの時間を費やしてきた。
65歳にもなってこの「くよくよしている時間」がもったいないことにやっと気づいた(笑)。
残された時間は少ないのにこれではいけないと、今年、断捨離(過去との訣別)を決意し、実行中だ。

くよくよしている時間はない。とにかく前に進みたい!

隼人の歩み2023/05/27

指宿市のココはしむれの年表にあるように、隼人が日本書紀に初めて登場するのが682年だ。

となると、装飾古墳の時期とは100年ほどずれるので、両者を結びつけるのはかなり難しい。

もっとも、682年の段階では、貢ぎ物を持って服属しているので、服属していない前段階があったと思われる。

ヤマトタケルが熊襲を征伐したのが4世紀。
その後、南九州に敵のいなくなった隼人はしばらくのびのびと暮らしていただろう。

時には北上して、かつての熊襲の地を脅かしていたかもしれない。
その戦いが装飾古墳に描かれた可能性はある。

しかし、500年頃の筑紫には磐井という強力な国造(豪族)がいたので、北部九州を脅かすほどはなかっただろう。

磐井が滅ぼされたあとは、隼人になんらかの動きはあったかもしれないが、とりあえず682年には大和政権に従属の意を示す。

しかしながら律令国家への組み入れは頑強に拒否したことは年表の通りである。

大野城見学のキモ②2023/03/01

大野城からの眺めと土塁である。
行ったのは昨年4月15日。

眼下の景色の真ん中に、九州国立博物館の屋根が見える。

大野城見学のキモ2023/03/01

大野城に行ったのは昨年4月である。
なぜか記事にはしていなかったようだ。

今あらためて「焼米ヶ原」の地名の由来を調べてみたら、ここが宇美町だと知って驚いた。

つまり大野城跡は太宰府市、大野城市、宇美町の2市1町にまたがっているのだ。

これが大野城跡(四王寺山)の見物を難しいものにしている。

大野城に関するパンフ・資料は太宰府市が何種類も出しており、これを手にする人が多いと思う。
ところが、太宰府市の資料には焼米ヶ原駐車場が載っていないのだ。

私は以前訪ねて閉園日だった「四王寺県民の森」を再訪しようとして、途中たまたま見つけたのが焼米ヶ原駐車場だった。

四王寺山の道はどこも狭くくねくねとして、もちろん車を停める所などない。
ところが、この焼米ヶ原は十数台も停められるスペースがある。
ここに停めて歩いたら驚いた。

素晴らしい土塁はある。
絶景である。(次の記事の写真を見てください)

礎石がある。

ここには10棟の礎石建物跡があり、うち1棟の建物周辺から黒く炭化した米がたくさん採集されたことから「焼米ヶ原」の名がついたそうだ。

さらに太宰府口城門跡や水ノ手口石垣もすぐ近くにある。

つまりここで大野城のエッセンスはすべて見られると言っても過言ではない。
それを案内しないなんて、行政の縄張り意識には困ったものである。

大宰府はいつできたか2023/03/01

カード集めの病が膏肓に入ってきたようだ。

太宰府市のマンホールカードをもらいに、大宰府政庁横の大宰府展示館へ。

西鉄二日市駅で降りて、まずは客館跡を歩く。

説明板に重要な記載があるのを発見。

「(15条路の)北側溝の底から、7世紀末の土器や瓦がまとまって出土しました。これはたいへん重要な発見で、街割りが7世紀末(飛鳥時代)にできたことを示す証拠です」

これがなぜ重要かというと、663年に白村江の戦いで百済が滅亡した後、唐は次に日本に攻めてくるに違いないと、中大兄皇子(のちの天智天皇)が急いで北部九州の防衛を固めた。

664年に水城、665年に大野城と基肄(きい)城を築いて、それまで那の津(博多)にあった役所を現在の大宰府の地に移した。

だからこの第一期大宰府ができたのは665年頃で、さほど立派な建物ではなかったとみられている。

ところが、7世紀末には街割りができていたというのだから、第一期大宰府もそれほど小さな町ではなかったということになる。


ちなみに、水城と基肄城については昨年5月にいろいろ書いているので、ぜひバックナンバーから見ていただきたい。

大野城についてはなぜか書いていないようなので次回に。

謎の石造物?2023/02/18

太宰府市の筑前国分寺跡には礎石が残っていて、その真ん中にはひときわ大きな柱を立てたらしい礎石がある。それが正体です。

これを掘り出してどこか別の所に置けば、謎の石造物と呼ばれるでしょう。

飛鳥にある斉明天皇ゆかりの酒船石遺跡も謎とされているが、案外、真相はそんなところかも??