私も退職金減らされてたよ ― 2022/04/07
私も退職前の年休代休消化中に、何の連絡もなく副部長→副部長級に降格になっていて、退職金が減額された!! https://t.co/XTgxJKIpTs
— 花に風 (@tossiee) April 7, 2022
青山繁晴議員秘書に82人応募8人通過 ― 2022/02/04
以下はすべて「青山繁晴の道すがらエッセイ」からの引用です。
初めての私設秘書がいずれ誕生しそうです
▼なんと82人もの応募がありました。
十代から七十歳代近くまで、幅広い、応募をいただきました。
すべてのみなさんに深く、感謝します。
▼その全員について、第一次の書類選考 ( 公設秘書3人による選考 ) 、第二次の書類選考 ( ぼくと公設第一秘書による選考 ) をおこない、8人ほどが通過しました。
今後、面接を行っていきます。
▼まだ途中経過ですが、応募された82人ものかたがたはみな、「もう〆切は過ぎたはず。今どうなっているのか」とお思いでしょうから、最小限度の情報に絞って今、公表しました。
なぜ最小限度か。
応募者全員について、応募の秘密を絶対に守らねばならないからです。
▼それぞれが憂国の士であり、年齢や男女、経歴はまったく関係なくそうであることが、何よりうれしいです。
すべてが決まってから後に、応募者全員にお礼として、ぼくから便りをお出しします。
▼なお、議員会館の青山繁晴事務所はこれまで、どんなに多忙でも、公設秘書の3人と参議院議員のぼくの4人だけで、公務を果たしてきました。
公設秘書とは、国会法によって国費 ( すなわち日本国民の税金 ) で人件費が拠出されることが認められている、特別職の国家公務員です。
公設第一秘書、公設第二秘書、公設政策担当秘書の3人だけです。
これはたとえば、アメリカなどに比べるとたいへん少ないです。
アメリカ議会の下院 ( 日本の衆議院 ) では、国費 ( すなわちアメリカ国民の税金 ) が負担する公設秘書は、議員一人あたり実に22 人です。
正確には、常勤秘書 ( permanent employee ) が18人、その他の秘書 ( additional employee ) が4人です。
これで、日米の格差に驚くのは、まだ早いのです。
ぼくの居る参議院にあたる上院では、議員ひとりが国費 ( 税金 ) で雇用できる秘書は、なんと人数無制限です。
最初に現役のアメリカ合州国上院議員から直に、これを聴いたときは、聞き間違いかと思いました。
しかし事実です。
無制限です。
おとどしくらいの話では、上院議員 ( 日本の参議院議員 ) ひとりあたり、平均40人を超えているそうです。
常勤秘書に限っても、平均35人前後いるそうです。
2年ぐらい前に、ぼくが確認した情報です。その後に多少の見直しがあったかも知れません。武漢熱のためにアメリカ議会に行って直接、議論することができませんから。
しかし「国費負担の公設秘書が減らされた」という話は聴きません。そんな発想すら、まったく聴きません。
背景には、議員自身が立法する法案が、アメリカの基本であり、日本では、そうした議員立法は全会派一致が大原則なのでとても少ないということがあります。
共産党をはじめ、世界観、国家観、歴史観がまったく違う政党と一致する法案は、なかなかに困難です。
ただし、学者や評論家の「日本は議員立法が少ないから駄目だ」といった批判は、現場を知らないお話でもあります。
なぜか。
議員立法ではない法案は、閣法と言います。内閣・政府が国会に上程するからです。
しかしそれは内閣・政府が勝手につくるという意味ではまったくありません。自由民主党が与党でいる限りは、すべての法案は、党の部会の審議を経て、部会で諒解されないと、国会に上程できません。
ぼくが議員となってから、一生懸命にみなさんに紹介してきた部会ですね。
閣法の審議、これが、部会の機能の最大のものです。
政府の方針や政策についても、部会の諒解がないと通常、成立しませんが、法案については、もっと明確です。部会を通らない閣法は、国会に出せません。
さらに大切な、知られざることがあります。
自由民主党の議員にほんとうにやる気があれば、みずから法案を行政官 ( 官僚 ) に提案し、内閣と議論を重ねに重ねて、閣法として仕上げることができます。
閣法ならば、野党が反対する法案であっても、国会に上程できる、つまり出せるから、非常に意義が大きいです。
ぼくはこの5年半、それを積み重ねてきました。
そして、このことこそが、議院内閣制の本分なのです。
アメリカの大統領制とは根本的に違います。
▼「日本も議院内閣制をやめて大統領制にしろ」と仰る評論家、学者、コメンテーター、元政治家がいらっしゃいますが、そういうかたは、天皇陛下のご存在が無くてもよいという立場の人が多いです。
ろくに考えずに、発言している人は論外ですが、信念をお持ちで「議院内閣制をやめろ」というかたは、基本、天皇陛下のいらっしゃらない日本を望んでいると、長い、直接の議論の体験から、ぼくは考えています。
どうして日本は議院内閣制でいるべきだと、ぼくは考えるのか。
国際社会で言う国家元首とは、日本では、天皇陛下しかいらっしゃいません。
たとえばアメリカの大統領は、為政者と元首を兼ねます。
ぼくらの日本では、元首は天皇陛下であり、そのもとに為政者の内閣総理大臣がいるのです。
ほんとうは、日本の天皇陛下のご存在は、西欧の法体系で言う元首とは、違います。
同時に、国際社会で「日本の元首はどなたですか」と尋ねられたとき、ぼくは必ず、「天皇陛下です。古代から一貫して、そうです。二千年を超える永い歴史を貫いて、そうです」と答えます。
それを聴いた外国人は、ぼくの経験の範囲内ですが、おひとりの例外もなく、日本と日本人への見方を変えました。敬意のこもったまなざしに、一変することも珍しくありません。
アメリカ人はもちろん、中国人であっても、そうなのですよ。
天皇陛下をいただき、そのもとに内閣総理大臣がいらっしゃり、その総理大臣は議会から選び、議会の議員は国民が選ぶ。
これが、ぼくらの祖国の議院内閣制です。
それを長いあいだ変わらずに支えている日本人に、すくなからぬ外国人が敬意を抱いてくれます。ぼくは何度も、何度もそれを世界の現場で聴いてきました。
戦場であってすら、そうなのです。
▼話を元に戻すと、その天皇陛下のいらっしゃる議院内閣制のもと、閣法を内閣や行政官任せにせず、共につくることを、その他の膨大な交渉、水面下交渉と同時進行で、ぼくは続けてきました。
ですから、たった3人の公設秘書で足りる訳はありませぬ。
しかし政治献金をどなたからも、1円も受け取らず、政治資金集めパーティをやらず、パーティ券を1枚も売らず、すなわち法が保証した資金集めを一切しないのですから、私設秘書の人件費について困難山積です。
そのために、奮闘してくれる公設秘書3人と共に、やせ我慢でやって来ました。
それを見直すきっかけになったのは、みなさんの熱意です。
「自由民主党を中から叩き直す」というぼくの理念に共鳴して、驚くほかないぐらい沢山のみなさんが、自由民主党の党員になってくださいます。
議員会館の青山繁晴事務所を通じて、なってくださいいます。
自由民主党ではな「自民党」が大嫌いというひと、政治家が大嫌いというひと、政治に無関心だったというひと、選挙には行かなかったというひと、そういう日本人こそが、どんどん議員会館の青山繁晴事務所を通じて自由民主党員になってくださっています。
▼そのために、ついに公設秘書3人の仕事が爆発 !
これを契機に、何とかやりくりをして、私設秘書を雇おうと、公設秘書3人と協議のうえ、ぼくが決しました。
▼さて、8人ほどの方には、やがて面接のお知らせが行きます。
そうでないかたにも、ぼくからの、こころからの礼状が届きます。
▼今回は応募しなかったけど、次に機会があれば考えようというひとも、それは無いというひとも、どうぞ、下掲をご覧になって、ぼくと、公設秘書3人と、やがて決まる私設秘書と、一緒に戦うために、自由民主党の党員になってください。
こんなに長い政権担当の歴史があり、だからこそ日本政治を直接、動かしていて、同時にやはりだからこそ既得権益にどっぷり浸かっていて、天皇陛下のご存在に基づく国造りを基本とする唯一の政党である、自由民主党を、外から変えることはできません。
内部の深くに確たる存在として居て、それでいて既得権益とは全面的に対決し、清潔を貫くことにだけ、変えられる希望があります。
ぼくと、一緒にやりましょう。あなたにこそ、魂から、申しあげています。
初めての私設秘書がいずれ誕生しそうです
▼なんと82人もの応募がありました。
十代から七十歳代近くまで、幅広い、応募をいただきました。
すべてのみなさんに深く、感謝します。
▼その全員について、第一次の書類選考 ( 公設秘書3人による選考 ) 、第二次の書類選考 ( ぼくと公設第一秘書による選考 ) をおこない、8人ほどが通過しました。
今後、面接を行っていきます。
▼まだ途中経過ですが、応募された82人ものかたがたはみな、「もう〆切は過ぎたはず。今どうなっているのか」とお思いでしょうから、最小限度の情報に絞って今、公表しました。
なぜ最小限度か。
応募者全員について、応募の秘密を絶対に守らねばならないからです。
▼それぞれが憂国の士であり、年齢や男女、経歴はまったく関係なくそうであることが、何よりうれしいです。
すべてが決まってから後に、応募者全員にお礼として、ぼくから便りをお出しします。
▼なお、議員会館の青山繁晴事務所はこれまで、どんなに多忙でも、公設秘書の3人と参議院議員のぼくの4人だけで、公務を果たしてきました。
公設秘書とは、国会法によって国費 ( すなわち日本国民の税金 ) で人件費が拠出されることが認められている、特別職の国家公務員です。
公設第一秘書、公設第二秘書、公設政策担当秘書の3人だけです。
これはたとえば、アメリカなどに比べるとたいへん少ないです。
アメリカ議会の下院 ( 日本の衆議院 ) では、国費 ( すなわちアメリカ国民の税金 ) が負担する公設秘書は、議員一人あたり実に22 人です。
正確には、常勤秘書 ( permanent employee ) が18人、その他の秘書 ( additional employee ) が4人です。
これで、日米の格差に驚くのは、まだ早いのです。
ぼくの居る参議院にあたる上院では、議員ひとりが国費 ( 税金 ) で雇用できる秘書は、なんと人数無制限です。
最初に現役のアメリカ合州国上院議員から直に、これを聴いたときは、聞き間違いかと思いました。
しかし事実です。
無制限です。
おとどしくらいの話では、上院議員 ( 日本の参議院議員 ) ひとりあたり、平均40人を超えているそうです。
常勤秘書に限っても、平均35人前後いるそうです。
2年ぐらい前に、ぼくが確認した情報です。その後に多少の見直しがあったかも知れません。武漢熱のためにアメリカ議会に行って直接、議論することができませんから。
しかし「国費負担の公設秘書が減らされた」という話は聴きません。そんな発想すら、まったく聴きません。
背景には、議員自身が立法する法案が、アメリカの基本であり、日本では、そうした議員立法は全会派一致が大原則なのでとても少ないということがあります。
共産党をはじめ、世界観、国家観、歴史観がまったく違う政党と一致する法案は、なかなかに困難です。
ただし、学者や評論家の「日本は議員立法が少ないから駄目だ」といった批判は、現場を知らないお話でもあります。
なぜか。
議員立法ではない法案は、閣法と言います。内閣・政府が国会に上程するからです。
しかしそれは内閣・政府が勝手につくるという意味ではまったくありません。自由民主党が与党でいる限りは、すべての法案は、党の部会の審議を経て、部会で諒解されないと、国会に上程できません。
ぼくが議員となってから、一生懸命にみなさんに紹介してきた部会ですね。
閣法の審議、これが、部会の機能の最大のものです。
政府の方針や政策についても、部会の諒解がないと通常、成立しませんが、法案については、もっと明確です。部会を通らない閣法は、国会に出せません。
さらに大切な、知られざることがあります。
自由民主党の議員にほんとうにやる気があれば、みずから法案を行政官 ( 官僚 ) に提案し、内閣と議論を重ねに重ねて、閣法として仕上げることができます。
閣法ならば、野党が反対する法案であっても、国会に上程できる、つまり出せるから、非常に意義が大きいです。
ぼくはこの5年半、それを積み重ねてきました。
そして、このことこそが、議院内閣制の本分なのです。
アメリカの大統領制とは根本的に違います。
▼「日本も議院内閣制をやめて大統領制にしろ」と仰る評論家、学者、コメンテーター、元政治家がいらっしゃいますが、そういうかたは、天皇陛下のご存在が無くてもよいという立場の人が多いです。
ろくに考えずに、発言している人は論外ですが、信念をお持ちで「議院内閣制をやめろ」というかたは、基本、天皇陛下のいらっしゃらない日本を望んでいると、長い、直接の議論の体験から、ぼくは考えています。
どうして日本は議院内閣制でいるべきだと、ぼくは考えるのか。
国際社会で言う国家元首とは、日本では、天皇陛下しかいらっしゃいません。
たとえばアメリカの大統領は、為政者と元首を兼ねます。
ぼくらの日本では、元首は天皇陛下であり、そのもとに為政者の内閣総理大臣がいるのです。
ほんとうは、日本の天皇陛下のご存在は、西欧の法体系で言う元首とは、違います。
同時に、国際社会で「日本の元首はどなたですか」と尋ねられたとき、ぼくは必ず、「天皇陛下です。古代から一貫して、そうです。二千年を超える永い歴史を貫いて、そうです」と答えます。
それを聴いた外国人は、ぼくの経験の範囲内ですが、おひとりの例外もなく、日本と日本人への見方を変えました。敬意のこもったまなざしに、一変することも珍しくありません。
アメリカ人はもちろん、中国人であっても、そうなのですよ。
天皇陛下をいただき、そのもとに内閣総理大臣がいらっしゃり、その総理大臣は議会から選び、議会の議員は国民が選ぶ。
これが、ぼくらの祖国の議院内閣制です。
それを長いあいだ変わらずに支えている日本人に、すくなからぬ外国人が敬意を抱いてくれます。ぼくは何度も、何度もそれを世界の現場で聴いてきました。
戦場であってすら、そうなのです。
▼話を元に戻すと、その天皇陛下のいらっしゃる議院内閣制のもと、閣法を内閣や行政官任せにせず、共につくることを、その他の膨大な交渉、水面下交渉と同時進行で、ぼくは続けてきました。
ですから、たった3人の公設秘書で足りる訳はありませぬ。
しかし政治献金をどなたからも、1円も受け取らず、政治資金集めパーティをやらず、パーティ券を1枚も売らず、すなわち法が保証した資金集めを一切しないのですから、私設秘書の人件費について困難山積です。
そのために、奮闘してくれる公設秘書3人と共に、やせ我慢でやって来ました。
それを見直すきっかけになったのは、みなさんの熱意です。
「自由民主党を中から叩き直す」というぼくの理念に共鳴して、驚くほかないぐらい沢山のみなさんが、自由民主党の党員になってくださいます。
議員会館の青山繁晴事務所を通じて、なってくださいいます。
自由民主党ではな「自民党」が大嫌いというひと、政治家が大嫌いというひと、政治に無関心だったというひと、選挙には行かなかったというひと、そういう日本人こそが、どんどん議員会館の青山繁晴事務所を通じて自由民主党員になってくださっています。
▼そのために、ついに公設秘書3人の仕事が爆発 !
これを契機に、何とかやりくりをして、私設秘書を雇おうと、公設秘書3人と協議のうえ、ぼくが決しました。
▼さて、8人ほどの方には、やがて面接のお知らせが行きます。
そうでないかたにも、ぼくからの、こころからの礼状が届きます。
▼今回は応募しなかったけど、次に機会があれば考えようというひとも、それは無いというひとも、どうぞ、下掲をご覧になって、ぼくと、公設秘書3人と、やがて決まる私設秘書と、一緒に戦うために、自由民主党の党員になってください。
こんなに長い政権担当の歴史があり、だからこそ日本政治を直接、動かしていて、同時にやはりだからこそ既得権益にどっぷり浸かっていて、天皇陛下のご存在に基づく国造りを基本とする唯一の政党である、自由民主党を、外から変えることはできません。
内部の深くに確たる存在として居て、それでいて既得権益とは全面的に対決し、清潔を貫くことにだけ、変えられる希望があります。
ぼくと、一緒にやりましょう。あなたにこそ、魂から、申しあげています。
謝罪がないので忘れられない ― 2021/12/07
時おり思い出しては、とてつもない不快さに全身が襲われる。
その不快感にまた襲われてしまった。
奴は今、新聞社の報道部デスクをしているM。
あろうことか、私と同姓だ。
当時、私は大島支社(名瀬市)の支社長だった。
支社長と言っても部下は一人で、自分も同じように取材に走り回っていた。
当時、徳之島の伊仙町では選挙がらみのいざこざがよくあった。
徳之島にも支局があるのだが、この人は地元の高校の先生上がりで、事件ものは取材しない決まりになっていた。
そこで私が手伝いに行ったのだが、そのあと社会部からもMが応援に来た。
するとMは伊仙の現場で、私に喧嘩を吹っかけてくる。
何に文句があるのか聞いても答えない。
現場の様子は大したことなく、M一人で十分対応できそうだったので、私は後を託して飛行場に向かった。
というのも、ちょうど強い台風が接近しており、その日に帰らないと足止めを食らいそうだったからだ。
何日も足止めされたら、支社を部下1人に任せることになる。何としても帰らなければならない。
飛行場への途中、Mから「大変なことになっている。すぐ戻ってください」と携帯電話があり、急きょ、引き返した。
ところが、戻ってみると何事もない。Mは「今、落ち着きました」という。
もう飛行機は逃したので、今度は船で帰ろうと港へ向かった。
するとまたMから「すぐ戻ってください」と電話が来て、戻る。
ところが、現場は何も起こっていない。
Mは平然としている。
結局、私は帰りの手段を失い、予報通り台風が襲来して空も海も欠航し、その後3日も奄美大島に戻れなかった。
仕事の予定はすべて狂い、私も支社の部員も大変な迷惑を蒙ったのである。
しかし、Mは私の宿に顔も見せず、一言も詫びなかった。
Mは社会部員だが、現場では私が上司(支社長は副部長)であり、「あとを頼む」という指示には従わなければならない。
明らかな業務命令違反である。
社会部長に報告すべきだったが、私はそういうやり方を好まないし、思いつかないほうだ。
Mが反省すると思っていた。
何年か後、Mとまた仕事をする羽目になった。
私が編集部デスク、Mが社会面担当の部員としてである。
その機会にMに嫌がらせをすることもできたが、私はそうせず、嫌悪感に鳥肌立ちながらも穏やかに接し、仕事を進めた。
Mは結局、一言も謝罪しなかった。
Mも今、デスクという立場になって、言うことを聞かない部員に手を焼くこともあるだろう。
そんなとき、徳之島で私にしたことを反省したりするだろうか。
いや、してないだろうな。
Mに真摯な反省と謝罪を求める。
その不快感にまた襲われてしまった。
奴は今、新聞社の報道部デスクをしているM。
あろうことか、私と同姓だ。
当時、私は大島支社(名瀬市)の支社長だった。
支社長と言っても部下は一人で、自分も同じように取材に走り回っていた。
当時、徳之島の伊仙町では選挙がらみのいざこざがよくあった。
徳之島にも支局があるのだが、この人は地元の高校の先生上がりで、事件ものは取材しない決まりになっていた。
そこで私が手伝いに行ったのだが、そのあと社会部からもMが応援に来た。
するとMは伊仙の現場で、私に喧嘩を吹っかけてくる。
何に文句があるのか聞いても答えない。
現場の様子は大したことなく、M一人で十分対応できそうだったので、私は後を託して飛行場に向かった。
というのも、ちょうど強い台風が接近しており、その日に帰らないと足止めを食らいそうだったからだ。
何日も足止めされたら、支社を部下1人に任せることになる。何としても帰らなければならない。
飛行場への途中、Mから「大変なことになっている。すぐ戻ってください」と携帯電話があり、急きょ、引き返した。
ところが、戻ってみると何事もない。Mは「今、落ち着きました」という。
もう飛行機は逃したので、今度は船で帰ろうと港へ向かった。
するとまたMから「すぐ戻ってください」と電話が来て、戻る。
ところが、現場は何も起こっていない。
Mは平然としている。
結局、私は帰りの手段を失い、予報通り台風が襲来して空も海も欠航し、その後3日も奄美大島に戻れなかった。
仕事の予定はすべて狂い、私も支社の部員も大変な迷惑を蒙ったのである。
しかし、Mは私の宿に顔も見せず、一言も詫びなかった。
Mは社会部員だが、現場では私が上司(支社長は副部長)であり、「あとを頼む」という指示には従わなければならない。
明らかな業務命令違反である。
社会部長に報告すべきだったが、私はそういうやり方を好まないし、思いつかないほうだ。
Mが反省すると思っていた。
何年か後、Mとまた仕事をする羽目になった。
私が編集部デスク、Mが社会面担当の部員としてである。
その機会にMに嫌がらせをすることもできたが、私はそうせず、嫌悪感に鳥肌立ちながらも穏やかに接し、仕事を進めた。
Mは結局、一言も謝罪しなかった。
Mも今、デスクという立場になって、言うことを聞かない部員に手を焼くこともあるだろう。
そんなとき、徳之島で私にしたことを反省したりするだろうか。
いや、してないだろうな。
Mに真摯な反省と謝罪を求める。
同期に嵌められ組合の班長に ― 2021/11/07
10月11日付で、きゃりーぱみゅぱみゅの自分は「ぼっち」だという告白を紹介した。
初めて芸能人が「自分は友達がいない」と話してるのを聞いたのは7、8年ほど前だったか。
確かハーフの若い女の子で、華やかなイメージと違うのと、その正直さに驚いた。
それまで、友達がいないことは恥ずかしいことだというのが〝常識〟で、そんな事を明かす人はいなかった。
あ、それ、言ってもいいんだと勇気づけられたのは確かだ。
それからぽつりぽつりと「自分には友達がいない」とテレビで言う人が増えて、今では「友達がいない芸能人」で検索するとたくさん出てくる。
ここまで多いとまるで流行りのようで、嘘っぽくなるけどね。
私も会社にいる時、友達は同期の二人しかいなかった。
そのうち一人は早く辞めて歯医者になったから、残るは一人だ。
この同期三人は転職組だったから、7月入社だった。
4月に入った新卒の連中は20人くらいいて、一応、彼らも同期ということになった。
そのうち編集局には7人ほど配属になり、慣例で皆、校閲部からスタートした。
私も7月から校閲部に配属になったのだが、早速、4月入社の同期たちにだまされた。
労働組合の班長になってほしいという。
組合の大会は毎年8月で、そこで交代するというのだ。
私は7月入社で組合の研修もなかったから、班長なんてきっと簡単な役なんだろうと安請け合いしてしまった(断れない性分)。
すると思ったより大変な仕事で、それは省略するが、何よりも「だまされた」のは翌年の8月の大会まで代われないということだった。
私以外の同期は翌年4月からそれぞれ取材部に巣立っていったが、私一人は校閲部に取り残されたままだった。若き日の貴重な貴重な1年を棒に振らされたのだ。
この陰謀の中心になった三ツ安という男は調子のいい奴で、今では役員になっている。
こんなこともあった。
三ツ安は、私が奄美大島支社長をやった後釜になったが、赴任前、私に洗濯機、冷蔵庫、掃除機を譲ってくれという。
私は「いいよ」とOKした(断れない性分)。
普通はタダで人から物をもらったら、なにがしかのお礼をすると思うが、三ツ安は全く何もしなかった。
一年たって家の掃除機が壊れたので返してくれと三ツ安に言ったら、掃除機をむき出しでガムテープで縛って送ってきたので壊れていた。
話を元に戻すと、私の残り一人の本当の同期は、私と一緒に選択定年で辞めた。
私はしばらくして引っ越したので、彼とも年に一度電話で話すくらいになった。
あるとき電話が一時間を超えて、私は長電話が世の中で一番嫌いなので、「もう切りたい」と言ったら、それ以来、縁が切れてしまった。
それで私には友達が一人もいないというお話でした。
初めて芸能人が「自分は友達がいない」と話してるのを聞いたのは7、8年ほど前だったか。
確かハーフの若い女の子で、華やかなイメージと違うのと、その正直さに驚いた。
それまで、友達がいないことは恥ずかしいことだというのが〝常識〟で、そんな事を明かす人はいなかった。
あ、それ、言ってもいいんだと勇気づけられたのは確かだ。
それからぽつりぽつりと「自分には友達がいない」とテレビで言う人が増えて、今では「友達がいない芸能人」で検索するとたくさん出てくる。
ここまで多いとまるで流行りのようで、嘘っぽくなるけどね。
私も会社にいる時、友達は同期の二人しかいなかった。
そのうち一人は早く辞めて歯医者になったから、残るは一人だ。
この同期三人は転職組だったから、7月入社だった。
4月に入った新卒の連中は20人くらいいて、一応、彼らも同期ということになった。
そのうち編集局には7人ほど配属になり、慣例で皆、校閲部からスタートした。
私も7月から校閲部に配属になったのだが、早速、4月入社の同期たちにだまされた。
労働組合の班長になってほしいという。
組合の大会は毎年8月で、そこで交代するというのだ。
私は7月入社で組合の研修もなかったから、班長なんてきっと簡単な役なんだろうと安請け合いしてしまった(断れない性分)。
すると思ったより大変な仕事で、それは省略するが、何よりも「だまされた」のは翌年の8月の大会まで代われないということだった。
私以外の同期は翌年4月からそれぞれ取材部に巣立っていったが、私一人は校閲部に取り残されたままだった。若き日の貴重な貴重な1年を棒に振らされたのだ。
この陰謀の中心になった三ツ安という男は調子のいい奴で、今では役員になっている。
こんなこともあった。
三ツ安は、私が奄美大島支社長をやった後釜になったが、赴任前、私に洗濯機、冷蔵庫、掃除機を譲ってくれという。
私は「いいよ」とOKした(断れない性分)。
普通はタダで人から物をもらったら、なにがしかのお礼をすると思うが、三ツ安は全く何もしなかった。
一年たって家の掃除機が壊れたので返してくれと三ツ安に言ったら、掃除機をむき出しでガムテープで縛って送ってきたので壊れていた。
話を元に戻すと、私の残り一人の本当の同期は、私と一緒に選択定年で辞めた。
私はしばらくして引っ越したので、彼とも年に一度電話で話すくらいになった。
あるとき電話が一時間を超えて、私は長電話が世の中で一番嫌いなので、「もう切りたい」と言ったら、それ以来、縁が切れてしまった。
それで私には友達が一人もいないというお話でした。
人の悪口を言わない ― 2021/11/05
日本ハムの新庄新監督が就任会見で「人の悪口を言わない」と言ったそうで、偉いなあと思った。
このブログは人の悪口だらけですから笑
でも、私も在職中は人の悪口など一度も言ったことがない。
そもそも悪口言ったり愚痴を言ったり、相談したりができない性分なんで。
同僚にも言えないし、飲みに行っても店の女の子に愚痴をこぼすわけでもなし。
退職したら恨みが募ってきて、止まらない。
腹を立てるまでに時間がかかるのかも笑
このブログは人の悪口だらけですから笑
でも、私も在職中は人の悪口など一度も言ったことがない。
そもそも悪口言ったり愚痴を言ったり、相談したりができない性分なんで。
同僚にも言えないし、飲みに行っても店の女の子に愚痴をこぼすわけでもなし。
退職したら恨みが募ってきて、止まらない。
腹を立てるまでに時間がかかるのかも笑
パワハラは何十年たっても忘れない ― 2021/08/18
一昨日、新聞社の枕崎支局時代を回顧したばっかりに、嫌なことを思い出した。
私は同支局時代から突然、会社の上層部ぐるみのパワハラを受け始めた。
本社での支局長会議のあと、編集局長が私に残るように命じ、何を告げたか。
枕崎の今急冷市長が、拾田社長に支局長を代えてほしいと訴えている。どうするかというのだ。
今急冷と拾田は鹿児島大学の先輩後輩の仲だという。
どうするかと言われても、寝耳に水だ。
なぜ?と戸惑いながらも「残留させてください」というしかなかった。
それから地獄が続いた。
拾田の命を受けた、汚元次長や蟻川社会部デスクが毎日、執拗に嫌がらせを続けた。
特ダネを書いても嫌味を言われるのだから、たまったもんじゃない。
汚元にいたっては、休日にこっそり枕崎支局管内まで来て、私に黙って祭りの写真を一面に載せるという侮辱をおこなった(ほぜどん事件)。
https://restart.asablo.jp/blog/2017/08/23/8654126
私のようにアドリブで言い返せない人間は黙り込んで不平を伝えるだけだ(もちろん相手にとっては屁でもない)。
毎日毎日がつらかった。
死のうと思った。
実際、自ら命を絶った人間は喧嘩のできない、おとなしい人間ばかりだ。
志布志支局へ赴任直後行方不明になったK君。
私の同期のM君は、私と同じ編集部デスク時代に亡くなった。
どちらも縊死だ。
私は家族のことを考えると、何とか50歳の選択定年まではと歯を食いしばって生き延びた。
社員は皆、私の心情を知らないから、退職金の割り増しと年功金をもらってさっさと辞めやがったと憎らしく思っていることだろう。
が、追い詰められた私に他の選択肢はなかった。
私は同支局時代から突然、会社の上層部ぐるみのパワハラを受け始めた。
本社での支局長会議のあと、編集局長が私に残るように命じ、何を告げたか。
枕崎の今急冷市長が、拾田社長に支局長を代えてほしいと訴えている。どうするかというのだ。
今急冷と拾田は鹿児島大学の先輩後輩の仲だという。
どうするかと言われても、寝耳に水だ。
なぜ?と戸惑いながらも「残留させてください」というしかなかった。
それから地獄が続いた。
拾田の命を受けた、汚元次長や蟻川社会部デスクが毎日、執拗に嫌がらせを続けた。
特ダネを書いても嫌味を言われるのだから、たまったもんじゃない。
汚元にいたっては、休日にこっそり枕崎支局管内まで来て、私に黙って祭りの写真を一面に載せるという侮辱をおこなった(ほぜどん事件)。
https://restart.asablo.jp/blog/2017/08/23/8654126
私のようにアドリブで言い返せない人間は黙り込んで不平を伝えるだけだ(もちろん相手にとっては屁でもない)。
毎日毎日がつらかった。
死のうと思った。
実際、自ら命を絶った人間は喧嘩のできない、おとなしい人間ばかりだ。
志布志支局へ赴任直後行方不明になったK君。
私の同期のM君は、私と同じ編集部デスク時代に亡くなった。
どちらも縊死だ。
私は家族のことを考えると、何とか50歳の選択定年まではと歯を食いしばって生き延びた。
社員は皆、私の心情を知らないから、退職金の割り増しと年功金をもらってさっさと辞めやがったと憎らしく思っていることだろう。
が、追い詰められた私に他の選択肢はなかった。
挫折 ― 2021/07/28
東京オリンピック。
挫折から栄光をつかんだ選手の話には共感する。
もっとも彼らトップアスリートは現役の期間が短いので、挫折してから復活するまでは数年くらいしか時間は許されないだろう。
その点、女子ソフトボールのオリンピック競技からの除外で、13年間待って再び金メダルを取ったのは長い例だろう。
もっともこれは選手個人の問題ではなく、ソフトボール界全体の挫折だったわけだが。
13年間といえば、私も50歳で会社を辞めて13年間、サラリーマンとしては十分な挫折を経験した。
勤めていた新聞社で10年以上、パワハラに悩まされ苦しんだ。
そして選択定年の50歳で辞めると決心し、十年日記のカレンダーを毎日、一日が終わるごとに斜線を引いて消していた辛い日々。
ようやく50歳で辞めてからも地獄は続いた。
何もしなかったわけではない。
①京都造形芸術大学に編入して2年で卒業(芸術学士)
②本を3冊、共著を2冊出した。
③履歴書を40回は書き、2度勤めた(一度は上京までした。合わせて2年弱)
①は通信制で、スクーリングには10回以上行ったものの、それと③以外は大部分の10年は家にこもって本を読み、時々発奮して原稿を書いていた。本だけが友達だった。
これだけ挫折の期間が長いと、自信もなくなるわけだが、やはり人生をあきらめてはいけない、とオリンピックを見ながら出てくるのはシンプルな結論だ。
すると、たった今、Facebookで漫画家の江川達也氏が至言を書いていた。
【「いじめ」という言葉はクセモノだ。「攻撃」という言葉を使うべき。
「攻撃」には「防御」と「反撃」と「間合い」で立ち向かうしかない。】
そうなんだよな。
私はパワハラに無視、だんまりを決め込んだから失敗したのだ。
喧嘩ができない人間は狙われる。
挫折から栄光をつかんだ選手の話には共感する。
もっとも彼らトップアスリートは現役の期間が短いので、挫折してから復活するまでは数年くらいしか時間は許されないだろう。
その点、女子ソフトボールのオリンピック競技からの除外で、13年間待って再び金メダルを取ったのは長い例だろう。
もっともこれは選手個人の問題ではなく、ソフトボール界全体の挫折だったわけだが。
13年間といえば、私も50歳で会社を辞めて13年間、サラリーマンとしては十分な挫折を経験した。
勤めていた新聞社で10年以上、パワハラに悩まされ苦しんだ。
そして選択定年の50歳で辞めると決心し、十年日記のカレンダーを毎日、一日が終わるごとに斜線を引いて消していた辛い日々。
ようやく50歳で辞めてからも地獄は続いた。
何もしなかったわけではない。
①京都造形芸術大学に編入して2年で卒業(芸術学士)
②本を3冊、共著を2冊出した。
③履歴書を40回は書き、2度勤めた(一度は上京までした。合わせて2年弱)
①は通信制で、スクーリングには10回以上行ったものの、それと③以外は大部分の10年は家にこもって本を読み、時々発奮して原稿を書いていた。本だけが友達だった。
これだけ挫折の期間が長いと、自信もなくなるわけだが、やはり人生をあきらめてはいけない、とオリンピックを見ながら出てくるのはシンプルな結論だ。
すると、たった今、Facebookで漫画家の江川達也氏が至言を書いていた。
【「いじめ」という言葉はクセモノだ。「攻撃」という言葉を使うべき。
「攻撃」には「防御」と「反撃」と「間合い」で立ち向かうしかない。】
そうなんだよな。
私はパワハラに無視、だんまりを決め込んだから失敗したのだ。
喧嘩ができない人間は狙われる。
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