古代史における自虐史観2022/04/17

古代史を勉強していると、進んだ技術は何もかも朝鮮半島から伝わってきたことになっている。

例えば弥生時代を特徴づける三つ。

水田稲作
弥生土器
青銅器・鉄器

すべて朝鮮から教えられたことになっている。

丸木舟しかない時代に、わざわざ対馬海峡を渡る危険を冒して、技術指導の人たちがそのつど日本にやってきたのか。

とてもあの半島の人たちがそんな親切だとは思えない。
わざわざ伝えに来てくれた可能性はゼロだと思う。

日本では長い長い縄文時代(約1万2千年前~紀元前4世紀ごろ)の間にかなり高度な文化を築いていたことが知られている。
縄文土器や土偶に代表される。

これが内在的に弥生土器に発展したとみるのが自然だ。
何しろ基本的な作りは同じなのだ。
わざわざ朝鮮半島から〝新しい上質な土器〟が伝わってきたと見る必要はない。

稲作にしたところで、コメそのものは縄文時代前期(約6千年前)の土器から検出されている。

陸稲から長い時間をかけて、日本人が水田稲作へと磨いていったのは間違いない。
その証拠に、稲作が伝えられたとされる時期の朝鮮半島南部には水田はあまり発達しておらず、畑作の遺跡の方がずっと多いという。

それに比べて日本最古の水田が見つかっている菜畑遺跡(唐津)や前畑遺跡(福岡)では、すでに水田の整地がきちんとされ、水を引く水路も立派なものが作られているのだ。
これでも朝鮮半島から伝わってきたとゴリ押しするのだろうか。

以上、土器や稲作は日本独自に培われた技術と考えてよい。

残る金属器はどうだろう。
これも朝鮮半島からわざわざ伝えに来てくれたことはあり得ない。

ただ、日本人が中国に渡って、向こうの技術を参考にしたり学んだりする機会はあったと思う。
紀元1世紀には日本と中国との交流が始まっているからだ。

のちの遣唐使船でさえなかなかたどり着けなかったのに、どんな船で行ったのかは謎だが、とにかく行っているのは確かだ。

有名なところでは、紀元57年に奴国が使いを出して漢の皇帝から金印をもらっている。

また、239年には卑弥呼が魏に使いを送って、金印や銅鏡100枚をもらっている。
ただ、これとても200年間にわずか2回では製銅や製鉄の技術をきちんと学んだとはとても言い難く、わずかに見学したものを帰国してから日本人が技術を磨き上げて、あの見事な銅剣や銅矛、銅鐸に作り上げたのは間違いない。

さらに時代が下って、663年の白村江の戦いの後、日本は唐・新羅に対する防衛のために水城や大野城・基い城といった巨大な施設を次々と造るわけだが、これも亡命百済人の指導で造られたとされて「朝鮮式山城」と呼ばれている。

確かに日本書紀には亡命百済人の高官2人の名前が出ている。
しかし、これは唐・新羅の戦法に対処するためのアドバイスを受けただけだろう。

何しろ日本はすでに仁徳・応神天皇陵という、世界最大の墳墓を造成する土木技術を持っていたのだから、築造自体に学ぶことはない。

その証拠に、調査した専門家によると、大野城は統一基準のもとに施工されたのではなく、さまざまな技術者・集団の動員が行われたことが分かるという。

以上、時代を画する技術はすべて朝鮮半島から伝わってきたというのは、単なる学者の自虐史観による思考停止であると断言する。